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連載・特集

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <3> 訪日客に

英語で膝詰め 体験語る 対話のカフェ 共感拡大

 「軍人だった父は被爆から6日後、収容先の病院で亡くなりました」。7月6日、平和記念公園(広島市中区)にほど近いカフェ「ハチドリ舎」に、被爆体験を英語で語る堀江壮さん(78)=佐伯区=の姿があった。同じテーブルには肩を寄せ合って座る5人の外国人観光客。約2時間かけて、原爆に父を奪われ、戦後に姉や兄を次々とがんで失った苦しみを伝えた。

毎月6のつく日

 ハチドリ舎では毎月6、16、26日の「6のつく日」に被爆者を招く。客はリラックスした雰囲気の中で証言に耳を傾け、対話が自然と数時間に及ぶことも珍しくない。海外からの客だけが対象ではないが、訪日客の増加や口コミの評判を背景に、国境を超えた語り合いの風景が日常となった。

 この日は、堀江さんを含む4人の被爆者が迎えた。香港の英語教師ジェナ・ハドソンさん(24)は「日本に来たら必ず広島を訪れ、地元の視点から原爆を学んでみたいと思っていた。じっくり話せて、体験が身に迫った」とかみしめた。

 「6のつく日」の狙いを店主の安彦恵里香さん(40)はこう語る。「被爆者と友人になってほしい。原爆が友人の身に実際に起きたことだと実感すれば、遠い『過去』ではなくなる」。2008年に非政府組織(NGO)ピースボートの船旅に参加して以降、知り合った被爆者と友好を深めてきた中で得た実感だ。

 ハチドリ舎には、そんな安彦さんに共感した被爆者が集う。堀江さんは4歳の時、己斐上町(現西区)の山道で姉奎子(けいこ)さん=当時(15)=と被爆。海軍大佐だった父隆介さん=当時(46)=は大手町(現中区)で被爆し、岩国の海軍病院で亡くなった。数十年後、あの日とっさにかばってくれた姉は55歳で、焼け跡で父を捜し歩いた兄雄さん=当時(18)=は63歳で、それぞれがんで命を落とした。

 堀江さんは「もっとつらい経験をした人がいる」と自ら体験を語ることはなかった。しかし、被爆60年を過ぎると、「あの日」を知る人が減ってきたと感じ始めた。その頃、趣味の英会話の勉強のために通っていたNPO法人ワールド・フレンドシップ・センター(西区)で、訪日客への英語証言を勧められた。

国に応じた話題

 着物の柄が焼き付いた少女の肌、学校の運動場で延々と続いた火葬。堀江少年が見た光景を伝えるうち、目撃者としての使命感も増した。当初は原稿の英訳を人に頼んでいたが、今は相手の出身国に応じて、兵器産業や原発事故などの話題を自在に盛り込む。

 闘病をしながら証言を続ける。「通訳なしなら話せる時間は倍になる。膝詰めで話せば、海外の人は活発に質問してくれる」。手応えを糧に、対話を重ねる。

 広島には、原爆を投下した核兵器保有国の米国や、その同盟国からの来訪も多い。安彦さんは17年7月の開店以来、「6のつく日」を一日も欠かさず開催してきた。これまでに参加した人は国内外で約千人に上る。「原爆は広島だけでなく、人類全体の問題。そこに共感し、核兵器をなくすために行動してくれる人を少しでも増やしたい」と力を込めた。(明知隼二)

広島への外国人観光客
 2018年に広島市を訪れた外国人観光客数は178万2千人で7年連続で過去最多。原爆資料館(中区)は世界最大の旅行口コミサイトで国内の人気観光地2位に選ばれ、18年度は外国人の入館者数が過去最多の43万4838人で、全体の28・6%に上った。同館の音声ガイドは日英、中国語、韓国・朝鮮語、フランス語の5言語に対応。近くの国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、外国人向けの被爆体験の朗読体験プログラムなども提供している。

(2019年7月27日朝刊掲載)

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <1> 岐路の平和宣言

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <2> 新たな本館で

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <4> 被爆遺構

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <5> 公園の外へ

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <6> 平和首長会議

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <7> 減る証言者

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