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連載・特集

記憶・願い 受け継ぐ 8・6式典 都道府県遺族代表の思い

 米国の原爆投下から74年。広島市中区の平和記念公園で6日に営まれる市の原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)に、36都道府県の遺族代表各1人が参列を予定する。最高齢は93歳、最年少は55歳。遺族も高齢化が進み、出席者は2017年と並んで過去最少となる。36人に亡き人の記憶や、託された平和への思いを聞いた。

 ≪記事の読み方≫遺族代表の名前と年齢=都道府県名。亡くなった被爆者の続柄と名前、死没年月日(西暦は下2桁)、死没時の年齢、死因。遺族のひと言(記事中、かっこで現住所を記していない地名は被爆当時の広島市の町名)。敬称略。

吉田美紀子(63)=北海道
 父宮下俊治、18年4月29日、95歳、誤嚥(ごえん)性肺炎

 父は暁部隊(旧陸軍船舶司令部)に配属され、公務中、比治山町で被爆した。ガラス片で傷を負い、高熱や下痢に苦しんだという。私が幼い頃から体が弱かったため、被爆の影響を心配する父の姿を見てきた。広島は初めて訪れる。父が被爆した地も訪ねたい。

大やけどを負い、母子ともに長くは生きられないと言われた

藤田和矩(かずのり)(73)=青森
 母俊子、46年9月3日、21歳、心不全

 私を身ごもっていた母は白島九軒町の自宅で、父を見送りに外に出た際に被爆した。下半身に大やけどを負い、母子ともに長くは生きられないと言われた。母の写真2枚を肌身離さず持ち歩いている。自宅があった場所に母が好きだった菊を供え、冥福を祈りたい。

伊藤勝(80)=宮城
 叔母石亀エミ、45年8月8日、27歳、被爆死

 叔母は横川へ向かう途中に被爆した。行方を捜していた叔母の家族が中広町の河川敷で倒れて亡くなっているのを見つけた。叔母は優しい性格で、ずいぶんかわいがってもらった。被爆者の高齢化とともに風化が進む中、原爆の悲惨さを若者に伝えたい。

柴田敦子(64)=秋田
 父正博、18年8月8日、93歳、肺がん

 旧陸軍の通信兵だった父はけがで入院中に被爆した。その後、現在の原爆ドームを見たという話は聞いたが、詳しいことは語ろうとしなかった。よほどひどい状況だったのだろう。もう一度、広島を訪れたいとも言っていた。その機会を私に与えたのだと思う。

茂木貞夫(85)=茨城
 父嘉勝、68年12月17日、80歳、心不全

 刑務官だった父は吉島町にあった広島刑務所の執務室で被爆した。頭や背中にガラス片が刺さり、全身に包帯を巻いていた。それでも当時、治療を受けられただけ恵まれていたのだろう。私も被爆し、茨城で証言活動をしている。平和への思いを次代に伝えたい。

佐伯博行(75)=埼玉
 父金吾、06年9月2日、90歳、肺炎

 大洲町の工場で被爆した父は、とっさに機械の下に隠れて無事だった。寡黙な人だったが、己斐町の自宅まで歩いて帰る際に見た惨状のことは話してくれた。私は埼玉で証言活動をしている。平和の尊さを次世代に伝えるため、広島では親戚に当時の話を聞きたい。

片野義雄(72)=千葉
 父光雄、99年6月11日、82歳、耳下腺がん

 「灼熱(しゃくねつ)地獄」。陸軍鉄道連隊員で8月7日から4日間、広島市内でけが人の救護に当たった父は手記にそう記していた。私は恐怖や被爆2世としての不安から、広島からずっと目を背けてきた。初めて訪れる平和記念公園で父の思いと向き合いたい。

石飛公也(78)=東京
 母とし江、19年3月19日、105歳、老衰

 当時、父の仕事で家族は韓国南部の鎮海(チネ)にいた。戦況の激化から母は、私たちを連れて西城町(現庄原市)の実家へ行く途中、入市被爆した。つらい体験を語りたがらなかったし、私も関心が低かった。もっと話を聞いておけばよかったと強く思う。

木戸キク子(77)=神奈川
 母由井ヨシコ、04年3月8日、84歳、敗血症

 母は私たち子ども4人と牛田町の自宅で被爆。私たちは6人きょうだいで長女と次男は外出先で被爆した。母は顔や首にやけどを負った長女だけでなく、近所の負傷者も自宅に入れて看病した。私は今でも悩んだ時、あの時の母の姿を思い出し、頑張ろうと思う。

西山謙介(71)=新潟
 父喜代次、75年1月10日、57歳、肝臓がん

 旧陸軍の暁部隊にいた父は皆実町で被爆し、体験を語らずに亡くなった。私は新潟県原爆被害者の会事務局長として活動してきたが、会員の高齢化と担い手不足にあらがえず、20年度末で会の活動を停止する。父には「俺も頑張ったよ」と報告しようと思う。

堀久美子(63)=石川
 父宮腰彌吉、18年8月3日、92歳、腎臓疾患

 19歳で軍に召集された父は原爆投下翌日、尾道から列車で広島に入った。4人一組で遺体を50体ずつ集めて廃材で火葬したそうだ。その体験は、私が今回参列するのを機に被爆者健康手帳の交付申請時の記録を見て初めて知った。父はつらい話を避けたのだろう。

内藤幹夫(55)=山梨
 父藤三、12年6月25日、88歳、肝不全

 旧陸軍の通信兵だった父は比治山地区(現南区)の壕(ごう)の中にいて一命を取り留めた。山梨に帰ってしばらくは寝たきりで、周囲からは「何の病気だ」といぶかしがられたという。父が活動した地元の被爆者団体も高齢化が進む。2世の私たちが受け継ぐ責務がある。

明(あけ)恒次郎(58)=長野
 父平八郎、03年2月7日、73歳、脊髄腫瘍

 父は学徒動員で工場に向かう途中、京橋川に架かる柳橋の近くで爆風に飛ばされた。家の下敷きになって背骨が折れた影響で、生涯体が弱かった。父を苦しめた核兵器はいまだに存在する。核情勢が重要な局面を迎える中、私たちがやるべきことはたくさんある。

野村雅子(55)=岐阜
 父千頭(ちかみ)正典、19年2月11日、88歳、急性心不全

 父は学徒動員先の南観音町で被爆したという。「人にうじがわいているのを初めて見た」という話は覚えているが、それ以外、特に聞かなかった。ただ地元の中学校から証言を頼まれ、応じていたようだ。当日は被爆3世の娘、4世の孫の3人で手を合わせたい。

「全市街消えて無くなったのだ」。直後の様子を日誌に

齊藤博(79)=静岡
 父次男、53年7月19日、47歳、胃がん

 父は教師をしていた仁保町の広島鉄道教習所で被爆した。「広島が一発の原子爆弾に全市街消えて無くなったのだ」。直後の様子をそう日誌につづっていた。冷静な文面から非人道的な行為への憤りがにじむ。式典には初めて参列する。父の苦労をしのびたい。

金本弘(74)=愛知
 母ツネ子、13年2月16日、95歳、腎不全

 母は草津浜町の自宅で被爆したと、後に親戚から聞いた。多くの苦しみに接したのだろう。決して原爆のことを話そうとしなかった。母が他界した頃から、被爆した親族が相次いで亡くなっている。気持ちの整理はつかないが、万感の思いで参列したい。

阿部磨智恵(93)=三重
 弟高橋毅、96年8月15日、65歳、心不全

 弟は14歳の時、学徒動員先で被爆した。翌日、古里の因島(現尾道市)に帰ってきた際、足にガラスが刺さった状態で「広島は全滅した」と叫んだ姿が忘れられない。4人きょうだいのうち、私も含め3人が被爆者。元気でいる限り戦争の恐ろしさを伝えたい。

傷痕を隠すため長袖ばかり着ていた

渡辺憲太郎(62)=滋賀
 父弘三、10年9月2日、84歳、誤嚥(ごえん)性肺炎

 父は原爆投下の2、3日後に救援活動で広島に入ったと聞いている。母静子(10年に83歳で死去)も原爆で大やけどを負った。傷痕を隠すため長袖ばかり着ていた。両親は原爆についてほとんど語らず、知らないことばかり。広島で両親に思いをはせたい。

伊藤千鶴子(72)=京都
 母斉藤千代子、18年11月11日、93歳、肺炎

 3人姉妹だった母は妹と外出中に被爆した。母の姉も、別の用事で出掛けたまま行方が分からなくなったらしい。思い出すのがつらかったのか、母はあの日のことをあまり語らなかった。母の初盆に合わせて式典に初参列する。平和を願い、慰霊したい。

堀田隆(76)=大阪
 兄悟、15年6月30日、79歳、心不全

 兄は静かでおとなしい性格で、幼い頃の被爆状況を自分からはあまり語らなかった。被爆後も広島市内で暮らし続け、仕事に励んでいた。平和記念公園には約20年ぶりに訪れる。令和は戦争や核兵器のない時代であってほしい、との願いを胸に参列したい。

山村整司(77)=兵庫
 兄耕一、14年2月18日、82歳、口腔(こうくう)底がん

 兄はあの日、東観音町の自宅にいた。ものすごい光を感じ、気が付けば壁の下敷きになっていたという。幼い私も一緒にいたが何も覚えていない。戦後は戦死した父の代わりに必死に働いてくれた。リニューアルした原爆資料館を訪ね、兄に思いをはせたい。

中村秀子(73)=奈良
 母高橋康子、18年10月2日、97歳、心不全

 私を身ごもっていた母は宇品町の自宅で被爆した。軍需工場で働いていた父を捜し出したが、体中にうじがわき、体が腐って息絶えるのを見守るしかなかったという。夏が来るたび「原爆は本当に怖いもんや」と繰り返していた。初の参列。宇品を回ってみたい。

箕尾光芳(61)=和歌山
 父幸明、16年6月20日、87歳、脳梗塞

 父は賀茂海軍衛生学校(現東広島市黒瀬町)の7期生で、原爆投下後の松原町で救援活動をした。多くは語らなかったが、広島を旅行した際、父が大粒の涙を流していたのを覚えている。式典参加は初めて。一度も参列できなかった父の分も平和を願いたい。

本間恵美子(69)=島根
 母淳、13年7月9日、90歳、肺水腫

 母は原爆投下2日後に疎開先から広島市に戻った。自宅と知人の安否が心配だったからだろう。当時の体験を話すことは少なかった。今年は母の七回忌。被爆2世として次の世代にどう伝えていくか。式典参列を機に原爆資料館も訪ね、あらためて考えたい。

長谷川吉子(69)=岡山
 義母光子、19年3月11日、91歳、肺炎

 原爆投下の翌日と思うが、義母は職場の人を救援するため広島市内に入って被爆した。体調を崩すこともあったが91歳まで生きた。今年は義母の名が原爆死没者名簿に記される。参列して見届け、家族は元気にしているから心配ないよ、と声を掛けたい。

上松利枝(84)=広島
 父平木身利、45年9月26日、37歳、被爆死

 釣具店と食堂を営んでいた父は観音本町の自宅近くの観音橋そばで被爆。やけどで全身真っ黒で、母と看病した。父の死後、暮らしは一変した。戦争がなかったらと今も思う。たまに修学旅行生に体験を語っている。悲しくなってつらいが、記憶を伝えなければ。

金近衛(76)=山口
 父正三、77年12月15日、67歳、脳軟化症

 家族4人が天満町にあった自宅で被爆した。家が崩れ、父は私をかばって負傷した。衝撃が大きかったのか、当時の話を語らずに亡くなった。私は今、自らの被爆体験を小中学生に伝えている。初めて参列する式典の様子も教え、核兵器廃絶の願いをつなぎたい。

山地順子(67)=香川
 母大石ヒサ子、18年11月17日、93歳、老衰

 あの朝、母は勤め先の祇園町(現安佐南区)の工場におり、広瀬元町の自宅に数日間戻れなかった。郊外に逃げた家族4人と再会できたが、全員9月に亡くなった。「つらかったのはみんな同じ」と、一昨年まで体験を明かさなかった母の悲しみに思いをはせたい。

田中英子(81)=愛媛
 母有田みつ、06年3月25日、90歳、心不全

 母は西蟹屋町の自宅で被爆。一緒にいた7歳の私はガラスの破片で顔に大けがをした。その年の春に私の弟を病気で亡くしており、母は苦労が続いた。被爆の鮮明な記憶が残る世代は自分たちが最後。年を取って話せなくなるまではと思い、語り部を続けている。

山中誌朗(61)=高知
 母たみ、17年10月28日、88歳、肺炎

 「戦争は嫌やね」。母の言葉は重みがあった。祖父の仕事で広島に住み、16歳で爆心地から数キロの軍需工場で被爆。祖父母と再会でき、終戦で高知へ戻ったと聞いた。原爆死没者名簿にある名前を確認し、偏見に負けず姉2人と私を育ててくれた感謝を伝えたい。

救護活動で見た光景を絵に描き、小学校教師の私に託した

小野政江(69)=福岡
 父神谷(こうや)一雄、86年11月21日、61歳、腎不全

 陸軍病院江波分院で被爆。定年後、救護活動で見た悲惨な光景を絵に描き、小学校教師の私に役立てるよう託してくれた。以前、一緒に平和記念公園を訪ねた時、慰霊碑前で崩れ落ちるように頭を下げ祈っていた父。語り尽くせない思いを抱えていたんだろう。

大石依子(78)=佐賀
 母木村千春、05年2月24日、92歳、肺がん

 母は己斐町の自宅で、生後1週間ほどの弟に授乳していた時に被爆した。庭にいた私もけがをした。弟は翌年、高熱と下痢が続いて亡くなった。母は「原爆がなかったら丈夫に育っていただろうにね」と口にしていた。その時の切ない表情は忘れられない。

朝長靖代(67)=長崎
 母辻尾ヒサヨ、17年3月15日、88歳、肺炎

 母は南観音町の三菱重工業広島機械製作所で被爆。7日後、長崎の実家に行くため己斐駅へ向かった時、「妹の足をつかんだ全身やけどの人の手を『ごめんなさい』と振り払ったのが忘れられない」と話していた。式典前日に母の遺影を携え、現地を歩きたい。

高尾文子(70)=熊本
 母上野一子、18年5月11日、93歳、老衰

 あの日、母は吉田町(現安芸高田市)の実家で営んでいた飲食店で働いていた。あまり多くを語らなかったため、被爆状況については分からない。広島を訪れるのは約20年ぶり。リニューアルした原爆資料館を訪れ、当時の様子をしっかり記憶に残したい。

長尾佳代(76)=大分
 母能都(のつ)夏子、08年12月10日、91歳、老衰

 伴村(現安佐南区)の自宅の庭で黒い雨に打たれた母は、当時の惨状を話す時、いつもの笑顔が消えた。こんなつらい思いを誰にもさせたくないとの思いがあったのだろう。最近、若者の戦争への関心も薄れていると感じる。心を一つにして平和を願いたい。

春田理恵子(83)=鹿児島
 母段アイコ、98年12月5日、84歳、脳出血

 母は南観音町の自宅で被爆した。私も父、姉と一緒に人が焼ける臭いが漂う広島市内をさまよった。母と再会できた時の喜びは忘れない。母は原爆について語らなかったが、「戦争は嫌」と何度も口にしていた。母の写真とともに参列し、平和を祈りたい。

(2019年8月5日朝刊掲載)

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