×

連載・特集

きこえてる? 紙芝居「ちっちゃい こえ」が伝えるもの <中> 物語を分かち合う

曽祖父に「猫も人間も死んじゃった」

幼稚園児 陽子ちゃん(5)

 ♪ぼうや ねんね ねんねしな 父さん つよい 兵隊さん。猫の人形を抱いた古田陽子ちゃん(5)は、楽しそうに歌を口ずさんでいた。6月中旬、広島市南区の自宅のリビング。母親の里子さん(36)はその歌詞にぎょっとした。

 次女の陽子ちゃんに「何の歌?」と聞くと、「幼稚園でアーサーさんが紙芝居を読んでくれたの」と返ってきた。通っているフレーザー幼稚園(南区)にその日、詩人アーサー・ビナードさん(52)が訪れたことは知っていた。紙芝居の内容を尋ねると、陽子ちゃんは少し考えて言った。「猫ちゃん、死んじゃうんだよ」

 ビナードさんが制作した紙芝居「ちっちゃい こえ」の語り手は猫の「クロ」。8月6日の広島でクロは助かるが、体の中の「サイボウ」は元気をなくしてしまう。陽子ちゃんが歌っていたのは、クロのそばにいた「じいちゃん」が、1歳の誕生日を迎えた「あかんぼう」に聞かせていた子守歌だ。歌っているときに原爆が落ちる。あかんぼうも、お母さんも炎に包まれる―。

 そんな紙芝居を、里子さんは後日、幼稚園で見せてもらった。思い浮かんだのは、被爆した祖母のこと。「私も小学生の頃、話を聞いたなあって」

 祖母の藤岡絹江さん(85)は深川村(現安佐北区)に疎開していたが、原爆投下の翌日に姉を捜して市中心部へ。再会した姉は見分けもつかないほど真っ黒で、「水が飲みたい」と言い残して亡くなったという。

 泣きながら話す絹江さんを見て、里子さんは「もう聞かない方がいい」と思った。だから被爆体験を聞いたのは一度きり。絹江さんは認知症が進み、今は高齢者施設にいる。

 絹江さんから体験を聞くことは、もうできそうにない。でも、西区で暮らす絹江さんの夫、博志さん(91)なら、当時のことが分かる。陽子ちゃんにとっては、ひいおじいちゃん。里子さんは、陽子ちゃんと一緒に、話を聞いてみようと思った。

 ひいおじいちゃんの自宅で、陽子ちゃんは紙芝居のことを話した。「あのさ、猫がさ、逃げたけどさ、死んじゃった。人間も、死んじゃったの」

 そんな陽子ちゃんを抱き寄せ、ひいおじいちゃんは語り始めた。あの日、自分は広島県東部の古里にいて助かったこと。広島市内で建物疎開を手伝っていた同級生を何人も失ったこと。絹江さんとは、あまり原爆の話はしなかったこと―。

 その話を陽子ちゃんがどこまで理解できたのかは分からない。それでも里子さんは「よかった」という。「紙芝居をきっかけに、家族で大切なことを話す機会を持てたと思います」

 陽子ちゃんのように、家族から直接、戦争や原爆の話を聞ける子どももいる。しかし、被爆者の平均年齢はことし3月末で82・65歳。自らの体験をどうすれば家族と分かち合えるのか、葛藤する被爆者もいる。

 7月上旬に広島市の市民団体が主催したイベント「被爆電車に乗って1945年を語る」。参加した被爆者の岡本剛毅(つよし)さん(83)=安佐南区=は、ビナードさんが演じる紙芝居を見て、複雑な気持ちになったという。

 子どもたちが、物語に引き込まれていくのが分かったからだ。上演後、ビナードさんが話す原爆や放射能のことも興味津々で聞いていた。「ああいう伝え方なら、子どもも関心を持てるんじゃのう思うてね」

 岡本さんは、74年前、小学4年生だった。三篠本町(現西区)の神社で「ピカ」に遭い、自身に外傷はなかったが、あの日に見たむごい姿の死者、やけどやけがに苦しむ人の姿は今も頭から離れない。

 外傷のない自分が「被爆者」として過ごすのは何か後ろめたい。それでも、若い人に同じ経験をさせたくないと、原爆資料館(中区)のピースボランティアとして体験を語ってきた。しかし、自分の娘や孫には、被爆の話をしたことがない。怖いからか、気を使ってか「知りたい」と言われたことがなく、伝えるタイミングを失っている。

 「ピカの体験は、進んで話したいもんじゃないし、簡単に教えてと言えるもんでもない」と岡本さん。「何かきっかけがないと、家族でも分かち合えんのよ」。諦めかけていたけれど、あの紙芝居を見て思った。20歳前後の3人の孫たちが見たら、どう言うだろう。(標葉知美)

子どもに届く新たな表現

原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)

学芸員 岡村幸宣(ゆきのり)さん(45)

 丸木位里・俊夫妻が描いた「原爆の図」が今回、紙芝居という新たな表現で、編み直されました。生まれ直したとも言えます。そのことを自然な流れのように受け止めています。

 丸木夫妻が本当に望んでいたのは、美術作品としての高い評価だけではありません。見えない放射能の恐ろしさを「見えるもの」として暴き出し、伝えたかった。1950年代初めには、絵を掛け軸にして丸め、木箱に入れて担いで全国を回りました。作品の巡回展は、被爆の実態が知られていない中で、大きな反響を呼びました。

 多くの人の心を揺さぶった絵は、映画になり、ポスターになり、スライドになって広がりました。絵から想を得た交響曲も発表されました。紙芝居になっても不思議はありません。

 「原爆の図」を加工することを許可した、俊のめいで著作権を継承した丸木ひさ子さんはこう言っています。「俊と位里がやろうとしていたことと、アーサーさんの目指しているものは同じと感じる」と。

 戦後、時間がたつほど、戦争や平和、原爆のことを伝えるのが難しくなっています。70年前に新しく光り輝いていた「平和」という言葉は新鮮さを失っている。50年以上前なら、皮膚がただれた人の絵をそのまま若者や小さな子どもに見せることで、原爆の怖さや痛みを感じてもらえたかもしれない。でも、今は届くかどうか。

 「原爆の図」の中の人や生き物を切り取り、色を変えたり反転させたりして加工する―。私たちが思いもよらない手法と創作物語で、ビナードさんは今を生きる子どもたちにも届く作品を生み出しました。現実感や重みのある表現より、軽やかさや美しさが想像力をかきたてることがある。優れた絵や物語から想像する力を、人は持っているはずです。

 紙芝居の最後、観客は猫にじっと見つめられます。そこから「あなたの物語」が始まると思うのです。(標葉知美)

    ◇

 原爆の図丸木美術館は、アーサー・ビナードさんの「ちっちゃい こえ」制作の舞台裏を伝える企画展「紙芝居ができた!」を開いている。9月1日まで。月曜休館。同美術館☎0493(22)3266。

(2019年8月6日朝刊掲載)

きこえてる? 紙芝居「ちっちゃい こえ」が伝えるもの <上>

天風録 『ちっちゃい こえ』

きこえてる? 紙芝居「ちっちゃい こえ」が伝えるもの <下> 今につながる感覚

年別アーカイブ