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社説・コラム

社説 8・6式典 平和宣言 胸に響いたか

 参列者のみならず、テレビとラジオの視聴者も例年以上に耳を澄ませたのではないか。きのうの広島市の平和記念式典で松井一実市長が読み上げた平和宣言である。

焦点は禁止条約

 焦点は、核兵器禁止条約にどう言及するかだった。条約に後ろ向きな日本政府に対し、昨年までは署名と批准を直接求めていなかった。被爆者団体を含む約30団体が反発し、今年は明確に求めるよう要請していた。

 それを無視はできなかったのだろう。今年の宣言は、「被爆者の思い」として日本政府に署名と批准を求めた。これまで政府の意向に配慮してきた松井市長にとって、一歩踏み込んだメッセージには違いない。

 しかし、禁止条約に対する自らの考えは口にしなかった。市民が作り上げた宣言ならともかく、市長の名前で発信する宣言としては物足りなさを感じた人もいただろう。

 宣言には引用が目立つ。踏襲してきた被爆者の体験談には、短歌が加わった。非暴力を訴えたインドの政治指導者マハトマ・ガンジーの名言も盛り込まれた。ますます市長の生々しい言葉から遠ざかる気がする。

 平和宣言は9カ国語に翻訳され、市のホームページから世界に向けて発信している。被爆地からの訴えを、ガンジーの言葉で説いても迫力不足ではないか。短歌の訴求力を翻訳して伝えるのも容易ではなかろう。

 世界にも向けた平和宣言としては、もっと工夫の余地がある。作成に際しては、市長が意見を聴く有識者懇談会をさらに生かしてはどうだろう。

 現在のメンバーは公的機関の関係者が目立ち、全員が50代以上だ。若者や市民活動の経験者も加えて、意見を活発に交わせば、今までにない発想も出てくるのではないか。

公開の場で磨け

 さらに重要なのは、議論の一部を公開することである。市長は「素直にお話しいただける」として、今後も懇談会を非公開にしたいようだ。しかし、公の場で話せない平和の議論とは一体何なのだろう。

 市長がどんな考えで宣言を作ろうとし、有識者はそれをどう受け止めるのか。緊張感ある場で意見を交わしてこそ宣言は磨かれる。被爆75年の来年に向け、課題にしてもらいたい。

 もう一つ懸案がある。式典会場に響いていたデモや集会の拡声器の音だ。午前8時15分の黙とう中も、一部はやむことがなかった。反戦や反核の訴えであるとしても、静粛な祈りを妨げる行為である。顔をしかめる参列者がいたのもうなずける。

 市は、デモや集会の規制を検討している。きのうは会場の音量を測定し、参列者約4千人にアンケートした。結果を踏まえて、条例による規制も視野に入れている。昨年末の調査では「うるさいと感じた」が60%、「条例を定めて規制すべきだ」が69%に上った。

デモ規制慎重に

 とはいえ、デモや集会は長年続けられている。今になって、いきなり条例で規制しようとするのは乱暴すぎないか。

 長崎市の平和祈念式典や沖縄県の全戦没者追悼式でも、デモや現政権に対するやじはあると聞く。しかし、条例による規制は行われていない。条例で封じ込めるような手法は、平和の式典になじまない。

 惨禍を知る被爆者こそ静かに祈りたいはずだ。それなのに、広島の被爆者団体の5団体のうち4団体が、条例による規制には反対や慎重な姿勢を示していることに注目したい。

 憲法が保障する「表現の自由」を侵害することを懸念しているからだ。戦時下のように、自由にものが言えない状況をつくりたくないとの思いもあるに違いない。デモや集会を主催する団体もその心情をくみ、静かな祈りに配慮する姿勢をもっと示す必要があろう。

 原爆の日に合わせたのだろうか。式典が始まる前には、北朝鮮が短距離弾道ミサイルとみられる飛翔(ひしょう)体を発射した。核の恐ろしさを知ろうとしない者の蛮行だ。断じて許されない。

(2019年8月7日朝刊掲載)

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