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連載・特集

筆に託して 戦争体験と表現 <2> 日本画家 宮川啓五さん(92)=広島市西区

広島の記憶 今のうちに

 未公開の新作「ふるさと」は、広島県立美術館が所蔵する代表作「太田川」(1999~2000年)の続編のつもりで着手したという。被爆から70年を過ぎて描き始め、このほど完成させた。「年齢と共に一年一年描けなくなる気がして。だから今のうちに描いておきたかった」。倉庫に収めた作品の前で宮川啓五さんは穏やかに語る。

 高さ約1メートル、幅約8メートルもある。同様に大作の「太田川」は上流から下流へのパノラマで、戦前の冬、戦中の春、被爆して炎上する夏、戦後復興へ向かう秋―と四つの時期を表現した。それに対し「ふるさと」は時代をさらにさかのぼる。

 現在は大きな道路やビルが立ち並ぶ広島市安佐南区西原の1935年ごろの四季。少年時代の記憶を頼りに田畑や花々、祭りなど自然と共に生きていた時代の息づかいを、温かくも細やかな筆致で描いた。

 よわいを重ねて大作に挑んだのは、ヒロシマの記憶を描いてきた日本画家として「多様な古里の姿を残しておかねば」と思ったからだ。広島にも確かに存在した平穏な暮らし。それを奪ったのが、あの原爆だ。

 広島工業専門学校(現広島大工学部)2年生だった。市中心部での勤労奉仕に向かう途中、爆心地から約3キロの大芝町(現西区)で被爆。乗っていた自転車のチェーンが外れたのを直していて、命拾いした。

 親戚や知人を捜すため数日後に川舟で市中心部へ。川は遺体であふれ、ようやく上陸した場所でも無数の死を目の当たりにした。水を求め、防火用水に折り重なる人々、息絶え絶えに泥水をすする人…。被爆前に川辺で写生していた時に出会い、心を通わせた少女も帰らぬ人となった。

 被爆後、周りの人たちが次々と亡くなる中、自身も鼻血など被爆の影響が疑われる症状に不安が募った。数々のつらい体験は胸にしまったまま、絵の道へ進んだ。仏像や花などを題材に死者への弔いや平和への願いを投影し続けた。

 直接的に惨状を描くようになったのは被爆から50年近くたってからだ。記憶の風化を心配していた時、友人に「見た者が描き残すべきだ」と勧められた。「むごくて思い出すのもつらく、描いては手を止めることもあった。でもこれが事実」と絵筆を執り続けた。

 2015年には廿日市市のはつかいち美術ギャラリーで初めて被爆体験に焦点を当てた個展「宮川啓五展―ヒロシマの記憶」を開いた。円熟の技で原爆への怒りや命の尊さを伝える作品群は大きな反響を得た。

 そして「せめて90歳までは頑張ろう」と着手したのが「ふるさと」だった。90歳を機に私塾や文化教室の講師は辞したが、92歳になった今もヒロシマへの思いを筆に託し続ける。今挑むモチーフは赤いボタンの花。毎朝起きてはアトリエに並べた絵に筆を入れる。「何のためにこの世に生まれ、死んでいくのか。何も知らずつぼみのままむごい死に方をした少女をたくさん目にした」。無数の死を記憶にとどめ、せめて絵の中だけでも優しく葬りたいと願う。

 「古里の過去の歴史を見てきた者が、手が動く限り記録しておく。それが私の仕事」。画業70年を数える画家の決意に見えた。(森田裕美)

みやがわ・けいご
 1927年生まれ。49年に県美展、50年に当時日本画部のあった新制作展初入選。美術教諭をしながら創画展や院展で活躍。文化勲章を受けた故岩橋英遠に師事し82年に日本美術院特待。平山郁夫美術館評議員、創美会主宰などを務めた。

(2019年8月7日朝刊掲載)

筆に託して 戦争体験と表現 <1> 児童文学作家 那須正幹さん(77)=防府市

筆に託して 戦争体験と表現 <3> 作家 天瀬裕康さん(87)=大竹市

筆に託して 戦争体験と表現 <4> 画家 吉野誠さん(86)=広島市西区

筆に託して 戦争体験と表現 <5> 画家 岡田黎子さん(89)=三原市

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