×

連載・特集

筆に託して 戦争体験と表現 <4> 画家 吉野誠さん(86)=広島市西区

命を守ることこそが美

 埼玉県東松山市にある原爆の図丸木美術館。正面外壁に大きな木彫レリーフが懸かっている。中央にきのこ雲や原爆ドーム、その周囲には息絶え絶えの被爆者たち。端にはハトや花、原爆の子の像など平和希求を象徴するモチーフも見える。

 45年前、寄贈された作品「いのちの叫び」。贈り主は、廿日市中(廿日市市)の生徒たちだ。当時美術教諭だった吉野誠さんの指導の下、1972年から全校生徒約340人が制作した。74年11月10日付中国新聞には、「原爆の図」を妻と共同制作した広島市出身の画家丸木位里を同校に招き、贈呈式が開かれた様子が報じられている。

 「高度経済成長期を経て学校現場ではいじめなどの問題も出てきた時代。みんなで一つのことに取り組み、命について考えたいと思った」。吉野さんは振り返る。生徒たちは原爆記録映画を見て被爆の実情や命の尊厳などを学んだ上で、力を合わせ制作に励んだ。

 吉野さんの命に対する鋭敏な感覚は、旧満州(中国東北部)で死と隣り合わせだった敗戦前後の体験が影響しているのだろう。

 現在の庄原市西城町の農家に生まれ育った。食糧難の戦時下。「満州に行けば幸せに暮らせる」との宣伝を信じ、44年、11歳の時に家族7人で開拓団に加わって大陸に渡る。「開拓団というからには荒れ野を開墾するものだと思っていたのに、実際はわずかなお金で現地の人たちの農地を奪って居座った」

 45年7月に母が病死する直前、口にした言葉が忘れられない。「満州へ来るんじゃなかった。日本人は悪いことをしたのう。戦争に負けたら仕返しをされるじゃろうのう」。8月に入ると旧ソ連が参戦。そして敗戦を迎えた。

 「私たちにとって地獄の始まり。母の言っていた通りになった」。開拓団の家は包囲され、報復で襲撃された。若い団員が鎌でめった斬りにされたり銃で撃たれたりして亡くなるのを見た。旧ソ連軍による略奪や女性への暴行も横行した。吉野さんの姉を守るため旧ソ連の兵士たちに抵抗した祖母は、銃で頭を殴られ、亡くなった。

 引き揚げは翌年。生き残った父親ときょうだい5人で古里に戻った。苦学して進んだ高校で、美術教諭から「命を大切に守り、その美しい命を表現することが芸術」と学ぶ。絵の道を志し東京の美術大へ進んだ。

 美術教諭に就いたのは、敗戦の体験と後悔から「真実を見抜き、それを実行する人間を育てることが私の使命」と感じたためだ。

 県内の公立中で平和教育にも力を注ぎながら画家として自由美術展などを舞台に活躍してきた。昨年の出展作は、破られた紙に絡まる黒い折り鶴を描いた「又あの時がやってくる・B」。平和憲法が骨抜きにされようとしている現状や未来への懸念をにじませた。

 作品によく用いる白や灰色は、死者の骨の色をイメージしているという。破られた紙は、紙切れのように粗末にされた命を映す。

 近年は洋画と並行してアルミアートの創作も続けている。捨てられた缶に旧満州で命を落とした開拓民の姿を重ね、折り鶴やハトを造形する。「命こそ美の根源」―。その思いを貫く。(森田裕美)

よしの・まこと
 1933年生まれ。44年に家族で旧満州に渡り、46年に引き揚げ。武蔵野美術大(東京)卒業後、広島県内の公立中で美術教諭を務めた。自由美術協会会員。

(2019年8月9日朝刊掲載)

筆に託して 戦争体験と表現 <1> 児童文学作家 那須正幹さん(77)=防府市

筆に託して 戦争体験と表現 <2> 日本画家 宮川啓五さん(92)=広島市西区

筆に託して 戦争体験と表現 <3> 作家 天瀬裕康さん(87)=大竹市

筆に託して 戦争体験と表現 <5> 画家 岡田黎子さん(89)=三原市

年別アーカイブ