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連載・特集

筆に託して 戦争体験と表現 <5> 画家 岡田黎子さん(89)=三原市

毒ガス 加害の歴史直視

 毒ガスの入ったドラム缶の運搬、風船爆弾に使う和紙製の気球作り…。描かれているのは戦中に学徒が味わった過酷な体験だが、細やかで温かみのある筆致が見る者を引きつける。

 「作品というより、若い人たちに分かりやすく戦争の本質を伝えるための『語り絵』です」。岡田黎子さんが広げたのは、30枚余りの墨絵だ。

 忠海高等女学校2年生だった1944年11月から翌年8月の敗戦まで、旧日本軍の毒ガス製造工場があった大久野島(竹原市)に動員された記憶をつぶさに描いている。平和学習などで子どもたちに戦争体験を話す際に見せているという。

 まもなく卒寿を迎えるが、体調が許す限り証言を続けてきた。戦時中、旧日本軍が中国で使った毒ガス製造に関わった「加害者」の一人として―。

 現在は「ウサギの島」として知られる大久野島では29年から終戦近くまで、国際法で禁じられた毒ガスを製造していた。機密保持のため「地図から消された島」でもあった。

 岡田さんたちは何も知らされないまま、ドラム缶の運搬などに従事。「島でのことは家族といえども話してはならぬ」と口止めされていたが、ガスマスク姿の作業員を見たり、島の松葉をつまようじ代わりに使った級友の頰が腫れたりして異様さには気づいていたという。米軍による爆撃に備え、使い古しのマスクを着ける訓練もあった。「悪臭がし、涙が出て顔がヒリヒリした」

 続いて任されたのは風船爆弾に使う直径約10メートルの球体作り。和紙をこんにゃくのりで重ねる作業をした。「気球の下に爆弾を積み、米本土まで風で飛ばすと聞いて、風任せなんてばかみたいと思った」と振り返る。ところが実際には米本土まで飛び、犠牲者を出したことを戦後に知った。

 苦難は続く。被爆直後の広島に動員され、郊外で2週間にわたって瀕死(ひんし)の負傷者の救護に当たった。「人の世とは思えぬ惨状。次々亡くなる負傷者に声も出なかった」

 戦後は得意な絵の道を選び、中学や高校で教壇に立つ。ある時、同僚の机にあった、旧日本軍の中国での残虐行為を題材にした本を手に取った。戦争では誰もが加害者にも被害者にもなり得ることを突きつけられ衝撃を受けた。

 自らが関わった戦争について次代に伝えねばと思うようになった。だが、子どもたちに口頭で説明しても反応はいまいち。「同じ年頃の体験として絵にしよう」と記憶を筆に託した。

 それらは89年に英訳付きの画集「大久野島・動員学徒の語り」にまとめ、自費出版した。海外に出掛ける人に託すなどし、旧日本軍が遺棄した毒ガスによる被害者や風船爆弾の犠牲者遺族も突き止め、わび状を添えて送った。

 2009年には続編ともいえる画集「子どもたちの太平洋戦争」も作った。被爆者救護に当たった体験や戦後の毒ガス処理の様子も描いた。優しいタッチで、加害も被害も入り交じる戦争の姿を浮かび上がらせた。「戦争で受けた苦しみを知っているからこそ加害の歴史も直視しなくては。それが過ちを繰り返さない大きな力になる」。そう信じている。(森田裕美)=おわり

おかだ・れいこ
 1929年生まれ。京都市立美術大(現・同市立芸術大)卒業後、中学・高校の美術教諭を務める。85年に病気退職後、日本画制作をしながら、戦争体験の証言活動に励んできた。

(2019年8月19日朝刊掲載)

筆に託して 戦争体験と表現 <1> 児童文学作家 那須正幹さん(77)=防府市

筆に託して 戦争体験と表現 <2> 日本画家 宮川啓五さん(92)=広島市西区

筆に託して 戦争体験と表現 <3> 作家 天瀬裕康さん(87)=大竹市

筆に託して 戦争体験と表現 <4> 画家 吉野誠さん(86)=広島市西区

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