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航空廠・広工廠 生の声後世に 呉の広郷土史研究会 証言や資料を収集

 呉市の広郷土史研究会が戦時中に広地区にあった軍需工場である、第11海軍航空廠(しょう)と、広海軍工廠の実態をたどる調査を進めている。資料収集に加え、当時を知る元動員学徒にもインタビュー。空襲体験も含め、消えゆく記憶を後世に伝える。(見田崇志)

 第11海軍航空廠は1941年に広海軍工廠の航空機部が独立して発足。広海軍工廠は艦艇の機関やスクリューなどを造り、航空廠は航空機の製造や修理を担った。資料は戦後、大半が焼却処分され、実態は不明な点も多い。関係者が保管してきた図面や写真を、研究会が収集してきた。

 研究会のメンバーたち8人は3日、市立広高等女学校の同級生だった呉、東広島市在住の元動員学徒7人を呉市内で取材した。呉市川尻町の福岡都喜子さん(90)は人間魚雷「回天」のスクリュー製造を担当し、「一つ造れば、一人死ぬ。力を入れて造れと言われた」と証言。航空廠や広海軍工廠が標的になった45年5月5日の空襲では「防空壕(ごう)があった山が揺れ、鼓膜が破れそうだった」と振り返った。

 ほかの元動員学徒も「れんが作りをしたが、木づちで一日中たたく作業で、体が痛くてつらかった」「空襲で焼け野原になったが、家族にも話すなと言われた」などと語り、研究会メンバーがメモに残した。

 動員学徒だった広高等女学校の同級生は毎月交流会を開き、毎年7月には全国からも集まって旧交を温めている。研究会が活動を知り、取材を申し込んだ。同級生の世話役の一人、大島よし子さん(90)=長迫町=は「自分たちは当時を知る最後の世代。『動員学徒』の言葉も知らない人が増える中、耳を傾けてもらいありがたい」と話していた。

 研究会は成果を順次、会報にまとめ、県内の図書館などに送る。上河内良平会長(69)は「市民の生の声が消えてしまわないよう、証言、資料集めを急ぎたい」と情報提供を呼び掛けている。研究会☎0823(71)6981。

(2019年8月12日朝刊掲載)

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