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連載・特集

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <2> 軍人の子

何度も家族で引っ越し

  ≪1932年1月17日、神奈川県横須賀市の海軍航海学校教官だった父弥作さんと、母キミヱさんの長男として生まれる≫

 父の横須賀時代の生まれになりますが、母が呉市の実家に戻って私を産んだと聞いています。私は幼稚園に入る頃から、以後の大半を呉で暮らしますので、「呉で生まれ育った」といっていいでしょう。ただ、職業軍人の父は転勤がしょっちゅうで、たびたび引っ越ししました。

 ≪弥作さんは岩国市出身で、志願兵として海軍入り。横須賀を経て、34年には大分県佐伯市の海軍航空隊の設営に派遣された≫

 横須賀時代の記憶は、近所の人に海水浴に連れていってもらったくらいしかありませんが、佐伯では少し父の記憶があります。隊から夕方、部下の運転するバイクのサイドカーに乗って帰ってくるんです。母とそれを出迎えるのが楽しみでした。生まれて間もない二つ下の弟と航空隊に連れて行ってもらい、飛行機の操縦席に乗せてもらったこともあります。

 ≪36年、父は呉に転勤する。軍艦「朝日」の乗組員になった≫

 小屋浦(広島県坂町)に祖父の小さな別荘があって、日中戦争に派遣されていく「朝日」を、小屋浦の海岸から見送ったのを覚えています。もちろん父の姿は見えませんが、母に「あれがお父さんの乗った軍艦よ」と言われ、誇らしかったように思います。

 私は翌年、呉平安教会付属の善隣幼稚園に入り、その翌年には辰川尋常小に入学しますが、まもなく父が佐世保(長崎県)を母港とする特務艦「明石」に乗り組むことになり、家族でまた引っ越しました。「明石」は艦船の修理ができる工作艦で、甲板で幾つものクレーンが動くのを、飽かず眺めたことがあります。

 ≪40年、再び呉へ。父が戦艦「大和」の艤装(ぎそう)(進水後の船体に、航海や戦闘に必要な装備をすること)を任じられた≫

 佐世保の小学校には半年余りしか通いませんでした。引っ越しは多かったけれど、つらいと思ったことはありません。軍人の子として、幼いながらも「当然」と思っていたのでしょうね。

(2019年8月1日朝刊掲載)

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『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <3> 大和の記憶

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <4> 日米開戦

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <5> 父との別れ

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <6> 焼け跡で

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <7> 高校教師に

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <8> 研究者の道へ

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <9> ダブリン大で

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <10> 詩人の魂

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <11> ヒロシマへ

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