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連載・特集

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <3> 大和の記憶

艤装員の父 任務は機密

  ≪1940年8月、戦艦「大和」は呉海軍工廠(こうしょう)でひっそりと進水した。同年秋、父の弥作さんはその艤装(ぎそう)員に着任する≫

 灰ケ峰の麓、呉市西惣付町に祖父が建ててくれた家から、海軍工廠のドック内に隠された大和へ、父は通いました。艤装というのは、完成した船体の進水式後、大砲など各種装備を取り付ける工程のことですね。

 軍事機密ですから、父が当時、具体的にどう艤装に関わっていたのかは知るよしもありません。「大和」という名前だけは、父の口からも聞いたことはありますが。

 日曜日に自宅でいわゆる「青写真」、青色の図面をテーブルに広げ、読むというか、じっと眺めていた姿が記憶にあります。父は大和では内務科に属し、例えば魚雷攻撃を受けた際に注排水して傾斜を復元するといったような任務を担いました。大和には数えきれないほどの部屋があったと聞きますから、艤装に立ち会い、頭にたたき込んでおかねばならないことがたくさんあったんでしょう。

 配置としては、艦後部の応急指揮所です。戦後、同僚の方から、父は「艦内のことを隅々まで知っていた。優秀だった」と言っていただいたことがあります。

 ≪通っていた辰川尋常小で、大和が話題になることもあったという≫

 海軍関係の家が多かったですからね。軍人だけでなく、海軍工廠の工員を含めて。同級生が「大和には船腹の内側に水槽があって、魚雷が当たってもそこで止まるんだ」なんて言うものだから、帰って父に聞いたら、「ああ、そうか」と言ってニヤニヤするだけでしたね。

 この頃は、陸上勤務の父と長く過ごせた時期でもあります。41年に日米が開戦し、太平洋戦争が始まると、大和は連合艦隊の旗艦にもなり、たびたび出撃します。父が帰宅できるのは、大和が呉湾に帰港する時だけになります。

 ある朝、起きて海の方を見ると、小山のような雄姿がどかっと海上に浮かんでいるのが見える。久しぶりに父に会えるんだと、その日は夕方が待ち遠しかった。

 以前に軍艦の見学が許された時代がありましたが、大和の見学は許されませんでした。

(2019年8月2日朝刊掲載)

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