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連載・特集

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <4> 日米開戦

国力の差 知っていた父

  ≪1941年12月、日米開戦。太平洋戦争が始まる≫

 ラジオも新聞も大々的に戦果を報じます。尋常小から国民学校になっていた教室には、高揚感がありました。海軍関係者の子が多いですし。

 ただ私には、父から聞かされていたことが、心に少し重荷としてありました。父は海軍に入って間もない時期に2度、遠洋航海を経験し、ハワイから米本土、中南米を回りました。ハワイには父の姉が移民していて家族を持っておりましたので、会いに行ったそうです。それで、冷蔵庫なんかが当たり前にある暮らしの豊かさや、文明国ぶりを見聞きした。父は姉に「こんないい所に暮らしているなら、もう日本に帰ることないよ」と言ったそうです。そんな話から、日米の国力の差をぼんやりと意識していました。

 その伯母夫婦は日米開戦の直前に、子ども8人のうち下の4人を連れて岩国の実家に戻ってきます。私が訪ねていくと、いとこは英語で兄弟げんかをしていました。義理の伯父は45年8月、広島で建物疎開の作業をしていて被爆死します。戦後、伯母は日本に残り、子どもたちはハワイに戻りました。

 後に知ったことですが、ハワイに残った年上のいとこのうち男3人は、米軍の日系人部隊に入って欧州戦線で戦ったそうです。

 ≪父は戦艦大和の竣工(しゅんこう)後、そのまま同艦で太平洋戦争に従軍≫

 ミッドウェー海戦をはじめ、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦…。大和は44年秋にレイテ沖でかなり損傷し、呉港に帰ってきます。父の船室もめちゃくちゃになったようで、「おまえにお土産を買っていたんだが、駄目になった」と申し訳なさそうでした。

 父は45年3月末の最後の出撃まで、呉で過ごします。火鉢にかけた湯豆腐をつつきながら、父が口にしたことを覚えています。「日本は戦争に勝てない」。負ける、とは言わずにそう言いましたね。

 この頃、私は呉二中(現宮原高)に進み、学徒動員で呉海軍工廠(こうしょう)で働いていました。父は「おまえが働いているのを見たいな」と言いましたが、かなわずじまいでした。

(2019年8月3日朝刊掲載)

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