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連載・特集

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <5> 父との別れ

最後の夕食 言葉詰まる

  ≪呉二中(現宮原高)に進んだのは終戦前年の1944年。戦争協力のために正規の授業は細っていった≫

 入学早々、田植えの時期になると仁方(呉市)の田んぼで勤労奉仕でした。秋の稲刈りは黒瀬(東広島市)に。呉から歩いて行くんです。黒瀬では農家に分散し、1週間泊まり込みで手伝いました。

 何百メートルか先の田で、同級生の別の組が稲刈りをしている。音楽の授業で習った手旗信号で会話したのは笑い話です。「おまえの所の待遇は」「うちは麦飯だ」とかね。農家の手伝いはとりあえず、おなかいっぱい食べられるのがありがたかった。

 呉海軍工廠(こうしょう)に通うようになったのは、1年の3学期からでした。家から直接「出勤」。何のために進学したのか分かりません。朝8時から夕方5時まで、魚雷の部品を造りました。2年になると夜勤も隔週で巡ってきます。連日、夕方5時から夜中の12時まで。夜勤後は家に帰れませんから、近くの寮に泊まり、夕方5時にまた出勤します。

 ≪この頃から、呉には米軍の空襲が相次ぐようになる≫

 45年3月19日、軍港一帯を襲った最初の空襲は、父が家にいた時でした。朝の空襲警報で、私たちは庭に掘った防空壕(ごう)に入りましたが、父は泰然と部屋に残っていた。戦地でいろいろ体験しているからでしょう。

 ≪3月28日、父弥作さんも乗り組んだ戦艦大和は、地上戦の始まった沖縄へ向けて呉を出港する≫

 26日に自宅で夕食を一緒に囲んだのが最後になりました。その夜中のうちに非常呼集で大和に戻り、翌朝にはいませんでしたから。

 父は食事しながら、「黎時、父さんはまだ生きているんだが、もうそろそろ戦死したほうがいいと思っているんじゃないか」と言うんです。笑顔で、冗談めかして。どんな心境だったのか。私には何とも返事のしようがありません。父は母に「これを洗っておいてくれ」と、シャツを1枚手渡します。母は察するものがあったのでしょう、洗わずにそっとしまいました。

 ≪大和は4月7日、鹿児島県南西沖で米空母艦載機などの猛攻を受け、乗員3千人余りと共に沈む。弥作さんは帰ってこなかった≫

(2019年8月6日朝刊掲載)

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <1> 学びの道

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『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <4> 日米開戦

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <6> 焼け跡で

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <7> 高校教師に

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <8> 研究者の道へ

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <9> ダブリン大で

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <10> 詩人の魂

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <11> ヒロシマへ

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