『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <6> 焼け跡で
19年9月3日
父の戦死公報 敗戦後に
≪動員先の呉海軍工廠(こうしょう)は1945年6月22日、大規模な空襲に遭う≫
凄惨(せいさん)でした。朝から空襲警報が鳴り、夜勤明けでいた寮から、横穴の防空壕(ごう)へ。壕から出ると寮が火を噴いていて、一瞬、「ああ、これで夜勤がなくなる」と考えましたが、徐々に辺りの様子が分かってきます。女子生徒も含め、目を覆うありさまの死体があちこちに…。トラウマになるような光景です。
でも、その後も工廠は稼働を続けます。若者の命よりも兵器の生産が優先される時代でした。死臭の漂う街を毎日、通勤しました。市街地へも大空襲が続きました。
≪8月15日正午、戦争終結の「玉音放送」は工廠の一角で聞いた≫
午後は自宅に帰されました。隊列を組んで帰るのですが、戦艦大和を造ったドックの前に差し掛かった時、自転車に乗った伝令の人が追い付いてきて、「明日から来なくていい」と言われました。
≪父の戦死公報が届いたのは9月16日≫
狩留賀(呉市)にあった復員局で「遺骨」を渡す手続きがあるというので、歩いて行きました。白いカバーの、むろん空箱です。その場で「海軍少佐 藤本弥作」と書いてくださいました。首に下げて帰る道中、沿道の人が敬礼してくれました。家に着き、父が残していた爪と、母がしまっておいたシャツを入れました。
4月7日の大和沈没のうわさは、早くに届いていました。数週間後、生還して近所に帰っておられた父の同僚に母が様子を尋ねますが、「私は出撃前に大和を下りていて、分からない」との返事でした。大和の主砲の方位盤射手、村田元輝大尉です。当時はまだ、かん口令が敷かれていたんですね。母は私に「お父さんは長い航海に出ている、そう思いましょう」と言いました。
三十回忌だったか、大和乗組員の慰霊祭に村田さんは故郷の美祢市から参列し、私どもの家に寄られて「あの時は申し訳なかった」と、畳に手をついて頭を下げられました。
≪焼け跡の広がる呉で、大黒柱を失った家族の暮らしが始まる≫
母と私、二つ下の弟、八つ下の妹。母の妹の家族4人も、しばらく同居しました。
(2019年8月7日朝刊掲載)
『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <1> 学びの道
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