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連載・特集

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <8> 研究者の道へ

英文学 イェイツを柱に

  ≪広高(呉市)の教員を2年間務めた後、広島大の大学院に入り直す≫

 学部時代の恩師から「戻ってこないか」と強く誘われて。この頃には恩給の制度が整い、戦死者の遺族として母が公務扶助料をもらえるようになったのも大きいです。家計を支える負担が軽くなりました。

 ≪大学院でも引き続き英文学を専攻し、研究の柱はイェイツに据える≫

 1923年にノーベル文学賞を受賞したアイルランドの詩人、ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865~1939年)。「花軒」の号で俳人でもあった鳴沢寡愆(かけん)先生に紹介され、興味を持ちました。

 没後まだ浅い現代の詩人であり、アイルランドという国にも引かれた。イェイツは、英国の支配からアイルランドが独立していく激動期を生き、社会的、政治的な詩も多くあります。尽きない魅力を感じました。

 ≪25歳、大学院1年の時に結婚≫

 当時出版社に勤めていた妻とは、お互いが学生時代に呉の文学サークルで知り合いました。私と同じく呉出身で、広島女学院大の学生でした。妻の卒論はイェイツ研究です。  ≪61年、広島商科大(現広島修道大)講師に。英語を担当した≫

 大学は当時、観音(広島市西区)にあり、4年制になってまだ2年目です。学生はパイオニア精神に満ちていました。

 顧問になった自動車部での愉快な経験を思い出します。ある日、学生が「九州一周しよう」と計画を持ってきた。「開学1年の商科大をPRしてくる」と、あちこちに協力をお願いしました。自動車販売の会社は新車2台を無償で貸してくれ、石油会社は系列スタンドでの給油をただにしてくれました。

 大学名を車体に大書した2台に、学生9人と分乗。8月6日から11日間、2200キロの旅です。浜井信三市長からの平和メッセージを携えて訪れた長崎では、「広島か、懐かしい」とか言って、やくざが乗り込んでくる珍事もありました。

 ≪63年、福井大に移る≫

 英文学の研究をより専門的にできると薦めてくれる人があり、思い切りました。冬には雪深い地です。住まいは大学まで歩いて10分の官舎。研究に専念できました。

(2019年8月9日朝刊掲載)

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <1> 学びの道

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <2> 軍人の子

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <3> 大和の記憶

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <4> 日米開戦

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <5> 父との別れ

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <6> 焼け跡で

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <7> 高校教師に

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <9> ダブリン大で

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <10> 詩人の魂

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <11> ヒロシマへ

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <12> 大学への期待

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