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社説・コラム

特別寄稿 私の朝鮮感傷旅行 平岡敬 <上> 学徒動員の工場跡へ

 朝鮮民主主義人民共和国は「北朝鮮」という呼称を嫌う。南が「韓国」なら、われわれを「朝鮮」と呼ぶべきだ、という理屈である。その朝鮮を74年ぶりにこの9月訪れた。訪朝のいきさつはこうだ。

 原爆小頭症患者と交流する俳優の斉藤とも子さんと広島で昨年夏に会った時、彼女の父の朝鮮での難民生活が話題となった。1945年8月9日、ソ連が朝鮮に攻め込んできた。斉藤さんの祖父は朝鮮北東部の羅津(現羅先市)の満鉄羅津病院長、父三郎さんは羅津中学の3年生だった。大混乱の中、一家はちりぢりになった。三郎さんは級友とともに歩いて逃げ、飢えに苦しみ、野宿を重ねて咸興(ハムン)にたどりついた。

 咸興では興南地区で、物乞いや農家の手伝いなどをしながら生き延び、翌46年5月末にようやく日本に引き揚げてきた。

 三郎さんの手記によれば、逃避行の間、多くの朝鮮人に助けられた。とも子さんは父を助けてくれた人たちへの感謝と、父の足跡をたどりたいとの思いから、朝鮮対外文化連絡協会(対文協)へ渡航を申請し、受け入れられた。

 咸興市となった興南には植民地時代、東洋一を誇る日本窒素肥料工場があった。私は45年4月から敗戦まで、京城帝大予科(現ソウル大)から学徒動員でこの工場で働いていた。もう一度訪れてみたいと思っていたので、斉藤さんの旅に加えてもらった。

 平壌から咸興へは車で約5時間。道路の両側はコスモスの白、ピンク、紅の花が続く。ちょうどトウモロコシの収穫期。住民総出で取り入れている地区もあった。遠くの山の麓まで広がる田んぼは、黄金色の稲穂が波打っている。食糧難のニュースを何度も聞かされてきたが、地域差があるのかもしれない。

 途中、美しいダム湖畔の新坪で休憩。レストハウスの商品棚には輸入食品などが並ぶ。缶コーヒーを飲んだらベトナム製だった。

 咸興は人口80万人。朝鮮戦争で廃虚となった。今は高層アパートが立ち並び、ロシアの地方都市のようなたたずまいである。

 興南工場群も爆撃で、がれきの山となった。再建された工場は化学肥料をつくり、朝鮮の農業を支えている。巨大なスローガンが書かれた塀の中の高い煙突が、盛んに煙を吐いていた。

 正門入り口の事務所前で、工場長の話を聞く。彼は私の働いていたアルミニウム製造工場を教えてくれた。残念ながら内部に立ち入ることはできなかったが、工場の位置は、私の記憶通りで、つらかった労働の日々がよみがえった。

 この日の宿舎は、西湖津の保養所。西湖津は昔は寂しい漁村だった。休日には友人たちと泳ぎに行き、砂浜に寝そべっては、生死の問題や文学などを話し合った。帰りには、魚を買い求め、宿舎で酒盛りをした思い出がある。

 車窓から海が見えた時、75年の歳月が一瞬に消え去り、私の全身は明るく輝いていた青春の酩酊(めいてい)時代へと滑り込んでいった。

ひらおか・たかし
 27年生まれ。37年朝鮮に家族で移り、45年9月広島へ引き揚げた。中国新聞記者となり、65年の日韓国交回復を機に在韓被爆者をいち早くルポ。広島市長を91年から2期。著書に「希望のヒロシマ」など。

(2019年10月14日朝刊掲載)

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