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創設者の資料寄贈 親が被爆死の孤児「育成所」 原爆資料館 日誌や写真465点

 原爆資料館(広島市中区)は30日、原爆で親を奪われた子どもたちを受け入れた「広島戦災児育成所」について、創設者の山下義信氏(1894~1989年)の遺族から関連資料の寄贈を受けたと発表した。日誌や写真など「原爆孤児」の暮らしを伝える計465点。同館は「戦災孤児の養護施設に関する資料が、これだけまとまって残されているのは全国でも例がない」としている。(明知隼二)

 育成所が「父となれ、母となれ」を信条に45年12月に開設されてから、53年1月に広島市に移管される頃までの資料。職員が子どもの学習や生活の状況を細かく記した「家庭日誌」、食事の記録である「炊事日誌」などのほか、山下氏が後年にまとめた「育成の若干の記録」など文書210点のほか、子どもたちの暮らしぶりを収めた写真214点などがある。

 日誌には、山下氏が職員に向けて記した赤字のコメントも残る。47年2月の「寄宿舎日記」では、母親代わりになれないことに悩む職員の記述に「何(な)んとしても何はなくとも母の許(もと)へ それが一番である そうゆう思出(おもいで)のできる育成所でありたい」と激励。別の日誌では、食糧事情に鑑み「来寮者に食事を出すことは主食なき今は断然中止のこと」と指示している。

 山下氏は呉市出身の仏教者で、原爆で次男を亡くした。広島に復員して孤児たちの悲惨な状況を知り、私財を投じ育成所を開いた。後に参院議員を2期12年務め、57年の原爆医療法制定にも尽力した。

 資料はこれまで長男の晃さんが保管。研究者などの閲覧に個別に対応してきたが、昨年10月に資料館に寄贈した。同館は「当時の子どもの様子に加え、育成所運営の細部まで気を配った山下氏の人物像も分かる貴重な資料。入所者のプライバシーに配慮しながら、活用方法を検討していく」としている。

広島戦災児育成所
 後に参院議員も務めた山下義信氏が1945年12月、広島市郊外の五日市町(現佐伯区)に私財を投じて開設。原爆で親を奪われた子どもたちを育てた。53年に広島市に移管され市戦災児育成所となるまでに、171人の子どもが身を寄せた。

(2019年10月31日朝刊掲載)

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