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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 埋もれた名前 <3> 幼い犠牲

生後数時間 名なき命

生きた証し 残す遺族

 原爆で全滅した青木信芳さん一家の被爆時について、おいの青木久之さん(73)=富山市=が亡き父勝治さんから唯一聞いた言葉がある。「生まれたばかりの子は母親と一緒にいたはずなのに、どうしても骨が見つからなかったらしい」

 生後9カ月だった長男信美さんのことだ。長女芳美さんも、4歳で未来を断たれた。

資料残らぬ死者

 広島市は、原爆死没者名簿や過去の公的調査のデータだけでなく、学校や事業所で作成された死没者名簿なども集めてきた。だが、青木さんの2人の子どもがつい最近まで記録になかったように、生まれたばかりの子や未就学児は、資料に残りにくい。

 生まれた当日に被爆死した新生児がいたという。広島市南区に遺族を訪ねた。

 「その子には、名前がないんです」。前田八重子さん(69)は、父沖野実さん(1991年に80歳で死去)から亡きわが子たちへの思いを幾度となく聞いた。

 旧姓「久保田」だった実さんは、米ハワイの移民家庭に生まれた日系2世。祖父母が住む広島市で家庭を築いた。45年8月6日、早朝に妻ツヤ子さん=当時(25)=が西観音町(現西区)の自宅で次女を出産した。実さんが産湯やおむつを用意して立ち会った。

 実さんが玄関を出て助産師を見送った直後、広島上空で原爆がさく裂した。ツヤ子さんと次女、長女寿美恵さん=同(2)=は自宅の下敷きになった。

 実さんは手記に、こう書き残している。「手を血まみれにしてやりましたが駄目でした」。火が迫り、近所にいた長男とその場を離れるしかなかったという。寿美恵さんは「おとうちゃん熱いよー 火がちたよー ててが焼けるよー…最後の絶叫を残して声はしなくなった」。

 後に実さんは再婚し、長男と戦後生まれの前田さんたち娘2人を育て上げた。毎月のように一緒に墓に参った。数時間だけこの世を生き、名もないまま命を絶たれた次女は墓石に「昭和二十年八月六日原爆死 享年 当才」と刻まれた。

 「あまりにふびんで…。生きた証しを残せないかと」。父が生涯背負った悲しみを胸に、前田さんは昨年、犠牲者の名前の登録・公開を受け付ける国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)を訪ねた。祈念館は前田さんの思いを酌み取り、次女を登録してくれた。名前の欄は空白のまま、当時の実さんの姓である「久保田」さんとして。

妊婦でも「1人」

 一方、平和記念公園の原爆慰霊碑に納められている原爆死没者名簿については「無理だろうな」と登載を申請していない。市の原爆被爆者動態調査は「名前」の積み上げが前提。同調査で把握する死者「8万9025人」から「久保田」さんがこぼれ落ちていることは、ほぼ間違いない。

 原爆は「久保田」さんのような生まれたばかりの命だけでなく、生まれようとする命まで奪った。

 原爆資料館は、焼けた頭蓋骨と腹巻きが残る臨月の妊婦を描いた「原爆の絵」を所蔵する。故三好茂さんが被爆翌日、現在の平和記念公園内にあった自宅跡で見つけた妻のヨシ子さん=当時(37)=を絵に残した。

 「こんな悲しいことは二度と起きてほしくない」。三好さんの長女の土井美代子さん(90)=安佐北区=は声を詰まらせた。市によるとヨシ子さんのようなケースは動態調査の上で犠牲者「1人」である。(水川恭輔)

(2019年12月1日朝刊掲載)

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