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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 広中満枝さん―友人の死 「いつか私も」

広中満枝さん(92)=岩国市

娘や孫たちにあんな体験させたくない

 広中(旧姓松尾)満枝さん(92)は、原爆が落とされてから間もない時期に大切な友人を失いました。同じ場所で被爆し、一緒に逃(に)げて助かったはずだったのに、放射線(ほうしゃせん)が体をむしばんだのでした。「いつか私も死ぬんだ」。自分の体にも同じように影響(えいきょう)が出てくるのではないかと、不安な日々を過ごしました。

 幼い頃に両親が病死し、12歳から伯母に育てられました。1945年当時は18歳。大手町(現広島市中区)の水産会社で事務員として働いていました。

 8月6日は中広町(現西区)の親戚宅(しんせきたく)に泊(と)まっており、仕事も休んでいました。午前7時ごろ、友人のつや子さんに会おうと榎町(えのまち)(現中区)に出掛けます。

 つや子さんの両親が営む店舗(てんぽ)の縁側(えんがわ)に腰掛(こしか)け、中庭を見ながら楽しく話している時でした。突然(とつぜん)、空がぴかっと光り、目の前が真っ黄色になりました。木造2階の店舗の屋根が落ち、2人の体に覆(おお)いかぶさりました。

 爆心地から約800メートル。太い柱や壁(かべ)に阻(はば)まれて、身動きができません。「つや子さん、大丈夫!?」。無事を確かめ合い、体の向きを何度も変えたりしてなんとか自力ではい出しました。辺りを見渡すと建物は全壊(ぜんかい)。不気味なほど静かでした。

 服はぼろぼろになりましたが、2人とも無傷でした。天満橋まで行くと大勢のけが人が集まっており、目を覆いたくなるほど、ひどいやけどでした。「『頑張って』と心の中でつぶやくことしかできなかった」と振り返ります。

 天満国民学校(現天満小)で突然声を掛けられました。「お姉ちゃんたち、私を連れてって」。振り返ると女の子が1人立っていました。耳が焼けて垂(た)れ下がり、身に着けていたのはパンツ一枚だけ。国民学校の6年生だといいます。ふびんに思い、広中さんの防空ずきんをかぶせて一緒に逃げました。偶然(ぐうぜん)にも、途中で女の子の家族と出会いました。

 広中さんたちは救護(きゅうご)トラックに乗(の)せてもらい、廿日市に着いたところでつや子さんと別れて、楽々園(現佐伯区)の親戚宅に身を寄せました。

 3日後、広島市中心部に戻りました。近くの土手で、兵隊が顔や手が膨(ふく)れ上がった無数の死体を並べていました。その直後から広中さんは、高熱や下痢(げり)に苦しみ、9月初めごろまで寝たきりに。死体を焼く臭(にお)いを思い出し、食べ物が喉(のど)を通りません。髪は抜け、歯茎(はぐき)から血が出ました。

 12月末、つや子さんの母親が訪ねてきて「娘は白血病で亡くなった」と打ち明けられました。数カ月は元気だったそうですが、急に具合が悪くなり、治療(ちりょう)する間もなかったそうです。

 広中さんは、なんとか職場に復帰(ふっき)しましたが、貧血でよく体調を崩(くず)しました。20歳で結婚(けっこん)し、夫と岩国市で、つくだ煮の製造会社を設立。家業を手伝いながら娘3人を育てました。

 これまで人前で被爆体験を話す機会はほとんどありませんでした。しかし「せめて記録に残そう」と思い立ち、2009年に国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)の証言ビデオの収録に協力しました。「岩国市原爆被害者の会」に体験記を寄せました。

 娘や孫たちの元気な姿を見るたびに「大切な家族にあんな体験をさせたくない」と思います。核兵器を持つ国の人たちが、一刻(いっこく)も早く同じ気持ちを抱(いだ)いてくれることを願っています。(新山京子)

私たち10代の感想

表情に強い意志感じる

 爆心地から近距離(きんきょり)で被爆し、病気の不安を抱え続けた広中さんは、92歳とは思えない元気な姿で被爆体験を話してくれました。「あなたたちに伝えるために元気でいたのよ」と言った時の表情(ひょうじょう)から、強い意志を感じました。若い世代として、被爆体験だけでなく、証言しようと決意した被爆者の思いも伝えていきます。(高3川岸言統)

体験を未来に伝えたい

 親友のつや子さんが亡くなったことを聞かされた時のことを、広中さんは「周りの人がたくさん死んでいたので、当然そうなのだろうと思った」と話しました。その言葉から、原爆の本当の恐(おそ)ろしさが伝わってきます。原爆が二度と落とされないため、広中さんのような体験を未来に伝えることが必要だと思いました。(中2中島優野)

(2019年12月2日朝刊掲載)

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