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ヒロシマの空白 被爆75年 埋もれた名前 <5> 学徒出陣

大学の調査 最近から

戦後60年で京都大など

 軍に召集され、全国から広島に単身で滞在していて被爆死した人たち。これまでの国の原爆死没者調査では、各地に散らばる遺族から十分情報を得ておらず、全容は分からないままだ。

 手掛かりを求め、原爆被爆者動態調査の報告書を何度も繰った。原爆死没者名簿や数々の関連資料を取り込みながら、広島市が40年間地道に続けている調査である。素朴な疑問が湧いてきた。「軍都」広島には全国の大学からの出陣学徒も多くいたのに、県外の大学関係では、30人が死亡したという早稲田大の名簿を反映した形跡しかない。

 ほかの大学は、どうなっているのだろうか。

 「2006年、完成しました。それまでは広島で何人亡くなったかも分からなかったんです」。京都市の京都大で、文書館の西山伸教授(56)が分厚い冊子を机に置いた。「京都大学における『学徒出陣』調査研究報告書」だ。

少なくとも10人

 京都大は戦後60年を控えた04年に太平洋戦争の戦没者調査を始めた。大学の学籍簿などを洗い出し、死没者495人を確認。うち広島原爆の犠牲者は少なくとも10人いたことが明らかになった。「経済 ルソン島山中 戦病死」「法・政治学 沖縄 特攻」などと記された死没者一覧に「医・医学 広島 原爆死」の文字が見える。

 京都大といえば被爆から1カ月余り後の1945年9月、原爆被害調査団が広島滞在中に枕崎台風の犠牲になったことが知られている。「原爆による死者もこれだけいたとは。歴史に埋もれていた」と西山さん。

 「学徒出陣」は一般に、戦争末期に大学生の徴兵猶予を停止して入隊させたことを指す。広島市は80年代に学校や会社の原爆死没者名簿を集中的に集めており、その時期に早稲田大の名簿も取り込んだ。

 西山さんによると、早稲田大のような早い時期からの調査は例外的という。欧米に比べ「大学」自体の研究者が少なく、資料収集や保存を担う文書館などの研究主体もなかなか整わなかったことを理由に挙げる。

情報には漏れも

 各大学が動き始めたのは、戦後50年の節目に大学と戦争の関わりに向き合う機運が高まった95年ごろからだった。慶応大は07年に戦没者名簿を刊行。45年8月中に9人が広島で死亡していた。九州大、東京大なども調査資料に広島で被爆死した人の名前を記した。

 苦労してまとめられた京都大の報告書だが、情報には漏れもある。

 たとえば「八月一二日 原爆死」と記された目崎一三さんの戦没場所は広島か長崎か「不明」。しかし取材を進めると、広島で亡くなっており、既に市の原爆死没者名簿にも登載されていることが分かった。

 目崎さんは現在の福山市出身。旧制広島高(現広島大)在学時は優れた詩作で知られた。卒業を控えた45年1月に広島の陸軍部隊に入営したが、社会学を学ぶという希望を胸に、学籍上は旧京都帝大に進んだ。

 おいの目崎包孝さん(62)=福山市=によると「入隊後に一度帰省し、『戦争は嫌だ』とこぼしたといいます。祖父母が生前、そう語っていました」。

 目崎さんを加えると、京都大の広島原爆の犠牲者は11人。この中に、動態調査に基づく死者数「8万9025人」からこぼれている人がいるかもしれない。各地の大学と被爆地が手を結べば、命と学びの意思を絶たれた犠牲者の名前を見つけ出し、互いの資料の「空白」を少しでも埋めることができるのではないか。(水川恭輔)

(2019年12月3日朝刊掲載)

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