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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 埋もれた名前 <12> 原爆孤児

「推定」79歳 わが名は

家族不明 記憶も薄く

 広島市南区に住む被爆者の田中正夫さんは、耳の不自由な人たちが働くアイラブ作業所(中区)に通い、仲間と過ごすのを楽しんでいる。絵が得意で明るい人柄。しかし、行き場のない思いを胸に抱えている。自分の本当の名前を知らない。年齢は「推定」79歳。4、5歳ぐらいだったとみられる1945年の「あの日」から、家族とはぐれたままだ。

平屋に家族5人

 「両親に会いたい」。作業所で田中さんに面会すると、切なる願いを手話で訴えてきた。かすかな記憶を懸命にひもといてくれた。

 被爆前は、母ときょうだいとの5人ほどで木造平屋に住んでいた。近くに山が見えた。家に父はいなかったように思う。「戦地に赴いていたのかもしれない」。聞こえず、話せなかったため、近所の子どもと遊んだ思い出はない。

 8月6日朝、自宅で母が作ったおにぎりを食べ終えた時だった。急に畳が盛り上がった。床下から光が差す方へ腹ばいになって進むと、川に落ちた。溺れまいと必死に顔を水面から出し、大声を出した。するといかだに乗った若い男性に抱き上げられた。体を横たえた人が周りにいた。

 記憶はここで途切れる。被爆の2日後に設置された比治山国民学校(現南区の比治山小)の迷子収容所へ運ばれたようだ。「広島原爆戦災誌」に収録された教員の手記に、耳の聞こえない子が「田中正夫という名をつけられた」とある。

 翌年から原爆孤児を受け入れる五日市町(現佐伯区)の広島戦災児育成所で育った。育成所の記録では「(昭和)15・10・10」「推定生年月日」。広島県立広島ろう学校へ進み、成人した60年に「田中正夫」として戸籍を作った。ふすま店や製材所などで働き、懸命に生きた。両親はどこに。自分の名前は―。常に探し求める人生でもあった。

 9年前に通い始めたアイラブ作業所で、その思いと親身になって向き合ってくれる人との出会いに恵まれた。施設長の沖本浩美さん(57)だ。

 沖本さんはある日、田中さんから1枚の絵を見せられた。いかだの上で兵士に抱きかかえられた幼児を色鉛筆で描き、「名前 ?」などと書き添えてある。田中さんの心の淵に横たわる、深い悲しみに触れた。

猿猴川に見覚え

 それ以来、記憶を引き出そうと2人で市内を歩いている。「見覚えがある」と田中さんが立ち止まった場所もある。南区段原4丁目の猿猴川に沿った一角。「家が川べりまで立ち並んでいた。この川をいかだで下った」。あとは思い出せない。

 田中さんは平和記念式典が開かれる毎年8月6日、平和記念公園(中区)に足を運ぶ。「顔が似ている」と参列者の人混みの中から肉親に見つけてもらいたい一心で。「推定」80歳を前にした来年の原爆の日も、田中さんは平和記念公園を歩いているだろう。

 広島の街角を何げなく行き来するだけでは決して気付かないが、被爆地には今なお、原爆に奪われた自分自身の「空白」を埋める手掛かりを求め、歩いている人がいる。体験者が持つ被爆時の記憶や、その記憶に耳を傾ける若い世代の情報を皆で持ち寄って、空白の一片でも埋める努力を続けなければならない。

 私たちは、原爆犠牲者数の「14万人±1万人」という大きな数字について聞いたり語ったりする時、名前や存在が埋もれたままの一人一人をどれだけ思っているだろうか。決して「過去」ではない、という意識をどれだけ共有しているだろうか。被爆75年の節目が訪れようとしている今も、戦後は終わっていない。そして、実態解明のためにできることは、まだまだやり尽くされていない。(山本祐司、水川恭輔)

(2019年12月13日朝刊掲載)

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