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救護被爆 鳥取班の記録 県原爆被害者協が発行 「悲惨さ知って」 45年8月 看護師延べ116人

 被爆者団体の鳥取県原爆被害者協議会は、原爆投下直後に救護班として広島に入った看護師や医師の記録をまとめた「原爆と地獄 補遺―広島被爆と鳥取県派遣救護班の活動」を発行した。1983~2015年に4集出した会員の被爆体験文集「原爆と地獄」に寄せられた証言を基に4年かけ調査。45年8月に少なくとも4病院から看護師延べ116人が派遣された全容が浮かび上がった。(小畑浩)

 鳥取県内の被爆者は3月末時点で226人。救護のため入市被爆した女性が目立つことから、県民の被爆の歴史を残そうと、協議会事務局長で広島市で被爆した石川行弘さん(78)=鳥取市=が調査。県立公文書館や広島市立図書館で見つけた記録を、被爆者の証言や既存の史料と照合し、A4判、85ページにまとめた。

 収録した調査結果によると、45年8月6日の被爆直後の7、8日、1次隊として鳥取赤十字病院(鳥取市)県立中央病院(同)厚生病院(倉吉市)米子病院(米子市、現鳥取大医学部付属病院)の学生を含む看護師計41人が医師たちと出発。翌9日から数日間、当時の広島市役所や広島逓信病院、国民学校などで救護に当たった。同月中旬に広島入りした2次隊の看護師は、県立中央病院を除く3病院の75人。ほぼ全員の名前を特定した。

 県立中央病院の1次隊の存在は、被爆者健康手帳の申請書類で裏付けられた。石川さんは「2次隊もあったはずだが公文書が残っていない。広島側の史料には別の救護班の記録もあり、陸軍管轄の病院から派遣された可能性もある」と情報提供を求めている。

 体験文集に収録した看護師や医師25人の証言も再掲した。薬が不足し、やけどをした皮膚から湧くうじ虫を取り除くことしかできず、負傷者が次々と亡くなる凄惨(せいさん)な様子がつづられている。石川さんは「戦争の救護現場の悲惨さを知ってもらえれば」と願う。

 400部発行し、鳥取市で今夏開いた追悼式典の参列者、県内の病院、看護学校、図書館などに配布した。石川さん☎0857(59)0798。

(2019年12月20日朝刊掲載)

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