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[ヒロシマの空白 被爆75年] 消された命の証しあった 旧天神町3世帯6人の被爆死 本紙確認

広島市「遺構展示の参考に」

 現在の平和記念公園(広島市中区)内にあり、原爆で壊滅した旧「天神町北組」の住民3世帯計6人の被爆死と、どこに住んでいたかなどの情報を、31日までに中国新聞が新たに確認した。遺族への取材で分かった。市は天神町北組の一角の遺構を2020年度中に展示施設として公開することを目指しており、整備計画づくりの参考にする。(水川恭輔)

 坂井岩三さん=当時(60)=、大草三五郎さん=同(67)=と五反田寿男さん=同(54)=の世帯。それぞれ、家族が全滅したり、1人だけ助かった後広島市外に移ったりしていた。

 天神町北組については、遺族や元住民の協力を得ながら爆心地一帯にいた一人一人の存在を掘り起こした1997~2000年の本紙連載記事「遺影は語る」の中で45年末までに被爆死していた163人を確認した。連載のまとめとして地図「平和記念公園(爆心地)街並み復元図」も作成し、市が平和記念公園を発掘調査する際の参考資料となっている。ただ一部の世帯に関しては、情報の確認が取れず「空白」になった。

 爆心地から至近距離にあった現在の平和記念公園一帯は、1945年8月6日に壊滅的な被害を受けた。戦後、焼け跡の上に土が盛られ、公園として整備された。被爆75年の節目に向けて、天神町北組の一部だった住居や通りの遺構の展示整備が進んでいるのを踏まえ、未確認の犠牲者の遺族を本紙があらためて追跡した。近年刊行の証言集などを手掛かりに、うち3世帯の遺族の所在が分かった。

 原爆を生き延びた天神町北組の元住民の中には、広島大などが60年代後半から70年代にかけて実施した「爆心地復元調査」に携わり、被害実態や遺族の所在に関する情報を集めた人もいた。しかし、全滅などを強いられた3世帯については詳しい情報を得られないままだったとみられる。

 2世帯の遺族は、遺影に加えてかつての住まいが写った写真も保管している。現在は平和記念公園となった旧中島地区一帯のかつての暮らしと、被爆による壊滅を伝える遺構の展示を進める市平和推進課は「被爆前の街に関する証言や写真は重要。整備計画作りの参考にしたい」としている。

「遺影は語る」
 平和記念公園(広島市中区)になった爆心地一帯の旧6町の住民や勤務者、建物疎開でいた少年少女らの原爆死を遺族の協力を得て掘り起こした。1997年から2000年にかけ、2369人を確かめ、85%の「8月6日」死去が判明。提供された遺影1882人のうち1655人は、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が遺族の了解を基に02年の開館から保存・公開している。

(2020年1月1日朝刊掲載)

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