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[ヒロシマの空白 被爆75年] 壊滅の悲惨さ 浮き彫り 旧天神町3世帯6人の被爆死確認

証言・資料 掘り起こしを

 後に平和記念公園(広島市中区)となった旧「天神町北組」の住民で、被爆死や居住地を確認できた3世帯の6人。遺族の証言や写真から、地域壊滅の悲惨さがあらためて浮かび上がった。市が公開を目指す遺構の周りになお残る「空白」を埋めるための、証言や資料の掘り起こしはまだできる。(水川恭輔)

坂井家

 3世帯はいずれも、市が通りのアスファルトの一部や炭化した畳などの住居跡を展示する予定の「天神町筋」沿い。展示場所となる峠三吉詩碑の東側に近かった天神町13番地では坂井岩三さん=当時(60)=と妻アサヨさん=同(54)=が自宅で被爆死した。子どもはおらず、2人暮らしだった。

 おいの故坂井敏彦さんの妻和子さん(83)=安佐南区=は「骨董(こっとう)店をしながらお花を教えていたそうです。夫は生前『大きい犬がいて、遊びに行くのが楽しみだった』と懐かしんでいました」。親類の手記によると、自宅跡でベッドの鉄枠が無残な姿をさらし、2人は白骨になっていた。

 和子さんは、岩三さんが生前に自宅で開いた「生花の会」の記念写真を保管している。「供養になれば」と国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に夫婦の名前と遺影を登録した。それが取材の手掛かりになった。

大草家

 坂井さん宅から5軒ほど南の向かいに当たる66番地に住んでいた大草三五郎さん=同(67)=と妻タメさん=同(58)=も、夫婦2人の全滅だった。現在の原爆資料館東館付近。2018年刊の「被爆者の人生を支えたもの」に収録された孫の節郎さん(13年に81歳で死去)の証言に、「天神町で即死」の記述があった。

 節郎さん自身は旧大手町7丁目の大草薬局で育ち、原爆に両親と兄までも奪われた。旧制広陵中2年で、建物疎開の作業現場で手足に大やけどを負った。薬局は再起できず、節郎さんは市内で電気店を営みながら子ども3人を育て上げた。

 長男靖久さん(60)=西区=によると、曽祖父母である大草さん夫婦の遺影はない。ただ「8月6日朝の墓参りが家族の『しきたり』でした」。父の他界後も、家族で墓参を続ける。

五反田家

 大草さん宅の南隣だった66番地の2では、五反田寿男さん=同(54)=と妻イシ子さん=同(50)=が被爆死していた。同居していた長女の掛井千幸さん(90)=東広島市=は当時市立第一高等女学校(市女、現舟入高)4年。8月6日は休暇で県北の祖父母宅にいた。翌日市内に入り、8月下旬に自宅跡で両親の遺骨を見つけた。戦後は親類が住んでいた現在の三原市に移った。

 広島市内であった市女の同窓会で掛井さんを取材した際、遺族としての証言を得た。「くじけそうになると『両親が生きていたら何て言ってくれるだろう』と考えてきました」。自宅前で撮った写真も保管する。

 遺構の展示を推進する市民団体の多賀俊介世話人代表(69)=西区=は、整備に向けさらに証言や写真が集まることを期待する。「どんな人たちが暮らしていて、被害に遭ったのか。市は単に遺構を見せるだけではなく、さまざまな証言や写真を生かして伝えてほしい」と話す。

(2020年1月1日朝刊掲載)

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