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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 論説委員 田原直樹 古関裕而を探して

戦没者の鎮魂へ「鐘」鳴らす

 「露営の歌」「長崎の鐘」「栄冠は君に輝く」「オリンピック・マーチ」…。昭和の時代とともにあったメロディーを紡いだ作曲家、古関裕而(ゆうじ)が再び脚光を浴びている。昨年は生誕110年。ことしは東京で再び五輪が開かれ、春から放送のNHK連続テレビ小説「エール」で主人公のモデルともなる。戦争から敗戦、復興、高度経済成長という激動の時代を生きた人々にとって古関メロディーは「人生の応援歌」でもあったはず。5千曲を手掛けた作曲家の足跡をたどった。

 原爆投下の翌年、広島の復興を願う歌が生まれた。「歌謡ひろしま」。被爆から1年の事業として中国新聞社が歌詞を公募した。曲を付けたのが古関である。

 「声も高らに 歌謡ひろしま」「古関氏鏤骨(るこつ)のメロデー完成」。そんな見出しとともに、歌は1946年8月9日付の朝刊で発表された。記事には古関のコメントも載る。「作曲にも苦心して何処でも誰にでもうたへるやうにした」。力の入れようが分かる。

 「初めて知った。珍しい曲ですね」。生誕地の福島市にある古関裕而記念館の学芸員、氏家浩子さん(63)は言う。「古関の曲は短調が多いのにこれは長調で明るい」。楽譜には「明るく軽快に」の指示も見える。被爆地を元気づけたい―と願ってのことだろう。

 もう一つ氏家さんを驚かせたのがこの作曲の時期。「終戦の翌年に広島からの依頼を受けたとは…」。というのも、この頃の古関は落ち着かぬ心境であったと思われるからだ。

 作曲で戦争に協力したと問われないか―と案じていたらしい。「戦犯」になるだろうと忠告した人もあった。古関の曲は厳密には戦時歌謡というが一般に「軍歌」と呼ばれもする。

 勝って来るぞと勇ましく…と歌う「露営の歌」は、日中戦争が始まった直後の作曲。この大ヒット曲をはじめ、古関は太平洋戦争終結まで、戦時歌謡を数多く手掛けている。

 「日中戦争の勃発によって古関は世に出た、と言えます」。近著「古関裕而」(中公新書)がある刑部(おさかべ)芳則・日本大准教授(42)は語る。

 軍部は戦意高揚へ、力強く勇ましい音楽を求めた。格調高い曲調を得意とした古関が合致したのだ。

 もともとクラシックを志向して独学した古関だが、コロムビア専属作曲家になる。ヒット曲が書けず、鳴かず飛ばずでいたところ、37年に「露営の歌」が当たる。

 旧満州(中国東北部)を旅行した帰途、下関から乗った列車内で作った曲。新聞に出ていた懸賞第2席の詩に曲を付けたという。詩にある、兵士が見送られ出発する光景は山陽線の各駅で目にしていたため「自然にすらすらと作曲してしまった」と自伝に記す。東京に着くと果たして、その詩に曲を依頼された。

 ヒットを受け、レコード会社は「軍歌の覇王」などと古関を売り出す。「暁に祈る」などもヒット。太平洋戦争突入後も「ラバウル海軍航空隊」「若鷲(わし)の歌」など戦時歌謡を多く作る。銃後の女性を鼓舞する「愛国の花」などもあった。

 戦時下の楽曲ではあったが、曲調には古関の人間性がにじんでもいる。

 古関は中支や南方、インパールに報道班、慰問団として派遣された。戦場の悲惨も目にしたためだろう。「雄々しいだけの軍歌は作れずに、どうしてもメロディーが哀調を帯びてきちゃうんです」と、戦後に語っている。

 しかし自作曲に送られて兵士が戦地へ向かい、多くが帰らなかった。そのことに古関は心を痛め、終生背負った。

 戦後はさまざまな分野で活躍したが、戦没者へのレクイエムとした曲もある。

 「長崎の鐘」はその代表的な曲の一つ。原作者、永井隆博士の心を震わせた。福島市の記念館には、病床の博士から届いた感謝の手紙やロザリオが並ぶ。

 歌手の側でも感じ取り、思いを乗せたようだ。広島市出身の二葉あき子は「フランチェスカの鐘」を原爆犠牲者にささげる曲として歌い続けた。広島をイメージした詩ではなかったが、古関の曲調と二葉の歌唱から鎮魂歌として聴かれた。

 「鐘」が題名に付く曲が古関には多い。レクイエムでないものもあるが、刑部准教授は「戦争による死者への鎮魂と、生き残った人に希望を与える曲として作ったのでしょう」とみる。

 広島と妙な縁もあった。一つ間違えば被爆死していたというのだ。

 作詞家西條八十(さいじょう・やそ)が広島の軍人に楽曲作りを頼まれ、古関を誘って行こうと考えた。「ぼくが行けば、当然彼も行くはず(中略)ぼくと広島へ来て共に死んだであろう」(日本経済新聞社「私の履歴書」より)。だが西條は風邪をひいて広島行きを中止。古関を誘うのもやめた。

 戦争の時代を、音楽を作りながら生きた古関。その悔悟も胸に戦後、人々への応援歌を送り出していく。

被爆地の歩み しのばれる曲

 まだ焦土の残る46年に生まれた「歌謡ひろしま」。すっかり忘れられたと思ったが、口ずさむ人がいた。

 ♪誰がつけたかあの日から 原子沙漠(さばく)のまちの名も いまは涙の語り草~。

 明るい曲のはずなのに、剌田只子(そりだ・ただこ)さん(80)=東京都練馬区=の歌声にはどこか哀調が漂う。

 福富町(東広島市)の久芳小に通う10歳の頃、広島からの転校生が教えてくれた。「以来ずっと耳に残っていた」と剌田さん。題名は知らないが、曲と歌詞は頭から離れなかった。「古関さんの曲でしたか」

 遠くにきのこ雲を見たあの日。小1だった。やがて被爆者が運ばれてきて、町はただならぬ様子だった。その記憶も重なったか、もの悲しい調べで口ずさんできた。

 歌詞は、広島市の歌人だった山本紀代子さんの作である。短歌などに原爆で長男を亡くした傷心を、多く詠んだ人である。あの日から1年、まだ立ち直れない中、街の復興を願ってこの詩を書いたと思われる。

 七つの澄んだ川、花の比治山、安芸の小富士…。歌詞には広島の地名や風景が織り込まれる。多くの広島市民に歌われ、心を慰め、励ましたはずである。

 この歌詞を「品があり」「立派なもの」と古関は評した。3番の歌詞に「鐘」の言葉もある。古関を奮い立たせたに違いない。

 市井で忘れられた後も、古関の調べと山本さんの願いは、剌田さんの中に生き続けていた。古関の音楽の力とも言えようか。

 一昨年夏、剌田さんは思い立ってカセットテープに歌を吹き込み、原爆資料館に送る。被爆後に広島で作られた最初期の音楽「歌謡ひろしま」。記録はあったが、音源はなかった。だが今は剌田さんのテープが音源としてデータベースに登録されている。さまざまな人の思いや被爆地の歩みがしのばれる歌声である。

(2020年1月3日朝刊掲載)

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