×

ニュース

原爆医療 膨大な記録 重藤氏の被爆着衣・研究ノート・書簡… 資料館など検証・公開へ

 「原爆医療」を切り開いた重藤文夫氏(1903~82年)が、45年8月6日に着ていた国民服や、未曽有の事態からの治療・研究を記したノート、広島原爆病院の開設に至る公文書、膨大な書簡類を残していた。氏に宛てた作家大江健三郎さんの若き日の直筆もあった。ヒロシマを巡る貴重な資料は、広島市の原爆資料館、広島大原爆放射線医科学研究所が整理・検証し、被爆75年を機に順次公開を図る。(西本雅実)

 東広島市西条町の生家や倉庫を引き継ぐ長男で医師紀和さん(78)が、母茂登さん(2011年に94歳で死去)と保存してきた。「原爆を記憶する最後の年代としても伝えていかなければ」と寄贈に踏み切った。

 「8月6日」朝、広島赤十字病院副院長の重藤氏は爆心地から約1・9キロとなる広島駅で宇品方面への路面電車を待っていた。手書き文書には原爆の惨禍が鮮烈につづられていた。

 「ピカっと光り…国民服の上衣で鼻と口元を押さえ…景色は一変」。駅北側の東練兵場で救護に当たり携えていた強心剤を使い果たし、旧西条町からの救援トラックに「拾はれ」た。

 全焼した鉄筋3階病院には翌7日、救援トラックに同乗するなどして入った。

 「とにかく庭にねている患者を建物の中に…職員の85%は負傷」「毎日々死体をやく…食物はカンパンと時々たき出しが来る」

 ドイツ語を交えたノート類は、急性放射線障害から今も続く「原爆症」をつぶさに書き留める。東京・陸軍軍医学校などが派遣し45年10月5日付で作成していた「臨東一広島救護班調査報告」を入手し、書き写してもいた。日本学術会議からの公表は米軍の占領統治が明けた翌53年である。

 48年に病院長となり、後輩の山脇卓壮医師(2006年に84歳で死去)と白血病の発現率の高さを突き止める。患者名・年齢・被爆状況、「昭和29年1月頃全身倦怠(けんたい)…視力が衰え」と、原爆による悲惨を記録し続ける。

 さらに56年開院の原爆病院長を兼務。前年の旧厚生省事務次官と浜井信三市長ら広島側との「部外秘」とされた会談要旨や、57年施行の原爆医療法から68年の原爆特別措置法についても各公文書や被爆者の側に立つ考えを残している。

 「人間が、なお核時代を生き延びうることへの、希望の徴光を示した」。重藤氏の歩みを「対話原爆後の人間」(71年刊)でそう著した大江さんの直筆原稿も見つかった。

 「重藤文夫資料」は原爆資料館がまず大別し、フランスの作家サルトルとボーボワール66年訪問のカラー写真を含む239点の目録を昨年末までに作成。国内や米ソなど世界の医師との書簡は広島大が今春から整理に入る。

広島原爆病院と重藤文夫氏
 1956年、広島赤十字病院(現中区千田町)構内で開院。鉄筋3階120床。病院長重藤氏が残していた日赤本社文書によると、お年玉つき年賀はがきから54年度1800万円、55年度5076万円余の寄付で設けられた。68年50増床。氏は75年3月に両病院長を退くまで被爆患者を診た。88年、共同病棟の完成から広島赤十字・原爆病院となった。

(2020年1月3日朝刊掲載)

年別アーカイブ