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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現 本通り <2> キリンビヤホール

酒と食事 家族に憩い

日常に戦争の影も

 「ええっ、あったんですか」。ビールスタンド店主の重富寛さん(57)=広島市中区=は、記者が3枚の写真を見せると驚きの声を上げた。中区本通にあった「キリンビヤホール」の被爆前の店内が写っている。キリンビール(東京)も画像は持っていないという。

 重富さんは、こだわりのビール注ぎで全国に知られる。ホールについて調べ始めたのは2017年。原爆の日の8月6日に東京の広島県アンテナショップで注ぐ機会を得た際、身近なビールから被爆と復興に関心を持ってもらおうと展示パネルを作った。被爆前のホールの写真も入れたかったが見つからなかった。

 モダンな造りのホールは1938年に開店。ドイツに倣ったレストラン形式で、家族連れがビールと食事を楽しむ人気店だった。開業と同じ年に撮影された店内写真に、着飾った家族連れの姿が見える。「家族で『ハレの日』にレストランに行く楽しみを思い出させてくれます」と重富さん。

ビール求めて列

 「新修広島市史」によると、戦時下に酒が配給制になるとホールは市内の酒類の約7割を供給し、45年3月にも夕方はビールを求める「百五十人もの老若」が券を手に並んだという。45年8月6日、内部をほぼ全焼したが建物は残り、早くも年末に営業を再開した。

 重富さんは「市民はビールを癒やしに復興への希望を膨らませたのだろう」と思いをはせる。被爆に耐えた建物は91年に解体。後に建った広島パルコ本館の外壁にモニュメントが残る。

 貴重な3枚は、近くで美髪院を営んでいた故鈴木六郎さんがのこした家族写真だ。アルバムを保存してきたおいの鈴木恒昭さん(88)=広島県府中町=によると、親戚でホールに集まり食事を囲むこともあった。

親思いな子 不明

 六郎さんのめい新宅和子さんが、父逸吾さんと並ぶ一枚も。その7年後、県立広島第一高等女学校(現皆実高)1年で建物疎開作業に動員され、行方不明のままだ。「和ちゃんは明るく親思いな子で、ピアノが上手でした。被爆の翌日、『和子が帰ってこんのんじゃ』とわが家に捜しに来た父逸吾さんの悲痛な声と涙が忘れられません」

 玩具店や帽子店の店内、呉服店の店頭…。六郎さんのアルバムの約2千枚の写真は、本通りやその周辺の街と市井の暮らしぶりを子どもの愛らしい笑顔とともに伝える。同時に、戦時下の空気も色濃く映す。

 戦争と平和について考える催しを開いている中区のカフェ、ハチドリ舎。六郎さんの写真に関心を寄せる店主の安彦恵里香さん(41)は複写を繰りながら、「擧(きょ)国一致」と書かれたのぼりや、戦地に赴く兵士が銃を担いで美髪院の前を歩くカットにも目を留めた。

 「今と変わらない家族の日常の中に『戦争』があった。写真を見ながら、現在の世の中と照らし合わせ考えることも大切ではないか」。被爆前の写真が現代の若者にとって持つ意味をそう感じる。(水川恭輔)

(2020年1月4日朝刊掲載)

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