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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現 本通り <4> 商店街

市民の元 残る「歴史」

茶箱に写真 驚き

 2019年4月に改装を完了した原爆資料館(広島市中区)は、展示の冒頭部分に被爆前の広島の街の写真を並べている。「被爆後の惨状と比べて見れば、被害をより実感してもらえる」と同館。家族の記念写真でも、背景に写る街の姿が「資料」になり得るという。

 市民の手元には、資料館のような公的機関にはないようなカットも含めてまだ眠っている―。そう考え、本通り商店街を歩いた。

 「3階建てでハイカラな建物だったんですよ」。共同ビルの「本通ヒルズ」にある食器専門店「渡部陶苑」を訪ねると、渡部聡会長(67)が被爆前の店頭を捉えた2枚の写真を見せてくれた。同じ場所で祖父母たちが「渡部銅器店」の名で営んでいた。

 その建物も家族も、原爆に消し去られた。祖父岩助さん=当時(67)=と祖母ソノさん=同(66)、伯母喜代子さん=同(43)=は遺骨が見つかっていない。市内にいた伯父良徳さん=同(29)=も犠牲になった。

疎開で焼失回避

 戦後、父勲さん(2010年に86歳で死去)が進学先の東京から帰郷し、親類と力を合わせて店を再建。跡を継いだ渡部さんは「被爆前の写真はすべて焼けたと思っていました」。ところが06年、本通ヒルズの建設に伴い倉庫を整理中、古びた茶箱の中に写真を見つけて驚いた。被爆前に郊外の親類宅に疎開させており、焼失を免れていた。

 1枚には、道を挟んで西隣の銀行が写る。1945年当時は帝国銀行広島支店だった。被爆後も使われた建物は67年、アンデルセン(現広島アンデルセン)の店舗に。現在、被爆外壁を一部残しながらの建て替え工事が進む。本通りの歴史と、かつての姿を伝える写真。渡部さんは、来店者から見えやすいよう、レジの後ろに飾っている。

 熊野真さん(71)が経営するワッペン・バッジ店「キシヨウ堂」にも、1939年撮影の店頭写真が1枚だけ残っていた。当時は軍服の縫製や帽章、胸章などの販売をしていた。

金属供出 伝える

 店を切り盛りしていた曽祖父秀吉さん=同(70)、祖母恵美子さん=同(42)=のほか、叔母3人と店に住み込みだった従業員数人が命を奪われた。「原爆で何もかもを失っても立ち直ってきたんです」。戦後生まれの熊野さんは、写真を通して店の復興を思う。

 商店街西端の「木定食料品店」(現木定楽器店)には戦時下の「金属供出」を伝えるカットがあった。店内とみられる一角に、鍋ややかんが並ぶ。当時の店主だった故木本定吉さんの孫の泉さん(77)=廿日市市=は「祖父が町内会の役員だったため、各家庭から店に持ち込まれたのでしょう」

 被爆前の街並み。戦争協力と隣り合わせの生活。かけがえのない家族や従業員の犠牲。焦土からの復興―。一枚一枚が、戦争と原爆に強いられた苦難と悲惨を物語る。(山下美波)

(2020年1月7日朝刊掲載)

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