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ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現 本通り <5> 探し続けて

店・家族の姿 知りたい

発見した一枚 遠い記憶今に
 「被爆前の店の写真は焼けてしまって一枚もないんです」。広島市中区本通の赤松薬局を取材した2019年11月、赤松偕三会長(92)がつぶやいた。

 赤松薬局は約400年前創業の老舗。赤松さんは1945年7月、薬剤師を目指して岐阜の薬学専門学校に進学した。その翌月、米国は古里の上空で原爆をさく裂させた。

 店は爆心地から約480メートル。赤松さんは8月9日ごろ市内に入った。店の焼け跡で、わずかな望みは悲しみに変わる。見慣れた腕時計のそばで父幹一さん=当時(57)=の骨を見つけた。座敷付近の遺骨は、傍らにあった眼鏡から母ユクヱさん=同(52)=だと分かった。

看板と店頭写る
 戦後、復員した兄と店を再建し、本通りを代表する存在に再び育てた。ただ、両親が大切にしていた被爆前の店は、写真がないままという。赤松さんの寂しそうな表情が忘れられず、取材を続けた。すると、広島大文書館(東広島市)の所蔵資料に「くすり 赤松藥局(やっきょく)」の看板と店頭が写る42年ごろ撮影の写真を見つけた。

 「おお、うちはここじゃ」。赤松さんに複写を届けると懐かしそうに見入った。「乾物店の八百金には豆がたくさん。ライト眼鏡店は、戦地に赴く前に予備のめがねを買い求める兵隊さんで繁盛していて…」。遠い記憶がよみがえった。

 赤松薬局の5軒隣にある婦人服地の店「巴里馬(はりま) 多山本店」を営む多山共栄さん(77)は、今も被爆で焼失する前の店舗の写真を探し続けている。

 店内で1枚の絵を見せてくれた。「合資會社(がいしゃ) 多山本店」の看板を構える住居兼店舗の鉛筆画。25年前、昔を知ろうと親戚たちに聞き歩く中で、戦時中に従業員だった人が描いてくれた。「大きな店だったんだ」―。かつての姿を確かめたい、との思いはさらに募った。

 戦前から洋反物問屋として営業していた多山本店。42年ごろに店を閉じ、被爆時は西警察署の寮として貸していたため、そこで暮らしていた伯母のほか署員数人が亡くなった。3歳だった多山さんは廿日市市へ疎開しており、記憶はない。

市民の輪に期待
 戦後、父幸男さん(85年に77歳で死去)が店を再建した。店名に、かつての町名「播磨屋町」の名残を刻む。大切な店や家族を失うとは、どういうことだったのだろう。どんな気持ちで復興に臨んだのか。「家族の歴史を知りたい」。写真が手掛かりになると信じる。

 原爆で市中心部が壊滅した広島は、行政機関や報道機関なども甚大な被害を受けた。現存する被爆前の写真の数は、限られる。それでも、街の記憶をたどろうとする市民の輪が広がれば、記録の「空白」を一つずつ埋めることができるはずだ。(山下美波)

    ◇

 昭和初期から被爆直前までに撮影された広島市内の写真を募っています。中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター☎082(236)2801(平日午前10時~午後5時)。peacemedia@chugoku-np.co.jp

(2020年1月8日朝刊掲載)

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