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遺品 無言の証人

[無言の証人] 溶けたビー玉

悲しみ・怒り わが子の形見 母、反核運動に奔走

  松田さんが敏彦さんの形見に、と自宅の焼け跡から持ち帰ったビー玉。一緒に遊んだ思い出や深い悲しみが込められている=1983年、松田雪美さん寄贈(撮影・高橋洋史)

 高熱で溶けて変形したビー玉には、原爆で最愛のわが子を奪われた母親の悲しみと怒りが込められている。松田雪美さん(2001年12月に91歳で死去)が爆心地から1・25キロの広島市宝町(現中区)の自宅焼け跡で掘り出し、長男敏彦さんの形見として持ち帰った。

 戦時中、松田さん一家は現在の東広島市内に疎開していた。広島市立第一工業学校(現県立広島工高)3年生だった敏彦さんは、電車で動員先の軍需工場へ向かう途中、鷹野橋電停付近で被爆した。やけどを負った体で市内をさまよい、3日後に疎開先へ戻ったという。

 「僕は化学を研究してどんな事があってもこの仇(かたき)は打つ」「弟や妹の教育は、僕が卒業したら引き受けるから心配はいらないよ」。松田さんが「ひろしまの河」(1985年、原水爆禁止広島母の会発行)に寄せた手記には、敏彦さんが高熱に苦しみながら最期に語った言葉や「絶対に死んでなるものか」と絶叫しながら8月21日夜に息を引き取った様子がつづられている。15歳だった。

 わが子の死に突き動かされるかのように、松田さんは戦後、反核運動に力を注ぐ。82年には米国ニューヨークで開かれた第2回国連軍縮特別総会の訪問団に参加。「八月六日近づけば爆死せし吾子の歳をまた数へみる」―。平和を思う短歌も詠んだ。「教育は、僕が卒業したら引き受ける」と死に際の敏彦さんが気に掛けていた弟の実さん(12年死去)は、広島経済大の学生部長などを務めながらネパールで小学校を建設する支援活動に尽力した。

 松田さんは83年、仏壇に供えていた敏彦さんのビー玉を、遺品のシャツやズボンと共に原爆資料館へ寄贈した。「愛し子の持ち遊びしマーブルが形くずれて転がりていづ」(桑島美帆)

(2020年1月20日朝刊掲載)

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