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連載・特集

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第1部 広工廠 <2> 教育の村

人づくりの地 軍拠点に

戦後復興に伝統の力

 「広はよいとこ(略)ハンマー握れば心がおどる」―。1936年に作られ、当時の広村(呉市広地区)で歌われた「広小唄」だ。作詞は宮中歌会始の選者吉井勇、作曲は「ちゃっきり節」の町田嘉章。干拓地の田畑が広がっていた広村が、海軍工廠(こうしょう)とともに発展したさまが伝わる。

 広地区はなぜ、軍需産業の拠点に選ばれたのか。後に戦艦大和を建造する呉海軍工廠(現在の幸、昭和地区)に近く、干潟の埋め立ても容易。村内の黒瀬川での水力発電も利用できる。広郷土史研究会の上河内良平会長(69)は加えて、「教育を受けた若い人材が多かったこと」を挙げる。

 礎となったのは、明治半ばから約30年間、広村長を務めた藤田譲夫が主導した教育の充実だ。小学校教育が有償だった時代から実質無償化。子どもは休み時間や就業前後に、麦わら帽子の素材の麦稈(ばっかん)真田作りなどを手伝い、その収益を充てたという。明治末で99%を超す村の就学率が記録に残る。

全国の「模範」

 卒業生には夜学を勧め、大人への仏教指導など生涯学習の仕組みも築いた。日露戦争後に国が財政難に陥る中、納税の義務を説き、10年に全国の「模範村」として表彰された。「教育第一」の考えは当時の広村公会堂の石碑に記され、今は近くの広小に残る。

 広村は17年、蒸気タービンなど海軍艦艇の機関機器類の研究、製造拠点に選定される。さらに翌年、後に広島県出身者として初の首相となる海軍大臣加藤友三郎らが視察に訪れ、航空機製造設備併設も決まった。「模範村たる広村内(略)理想的経営の遂行に努めつつある」。呉海軍工廠広支廠が開庁した21年の中国新聞は、呉鎮守府の村上格一司令長官が述べた期待の言葉を伝える。

世代超え披露

 広地区自治会連合会の吉井光広会長(90)は、村出身の川崎卓吉が36年に文部大臣に就いた時、住民がちょうちん行列で祝い、「村には偉い人がおる。しっかり勉強せいよ」と教員に励まされたのを覚えている。

 「教育村」の伝統は結果的に大きな戦禍につながった面もあるが、戦後、地域を立て直す力ともなった。49年に始まり、今も幅広い世代が文化活動の成果を披露する毎秋の「広地区教育祭」はその象徴だ。主催は広まちづくり推進協議会。その会長も兼ねる吉井さんは「教育は広の発展と復興の柱。今も人づくりのために多くの人が頑張っている」と胸を張る。(見田崇志)

(2020年1月26日朝刊掲載)

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