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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 佐藤恒男さんー学校は壊滅 「ぼうぜん」

佐藤恒男(さとう・つねお)さん(86)=広島市西区

校庭に散らばった白骨 立ち尽くした

 佐藤恒男さん(86)は国民学校の6年生だった12歳の時、原爆で大勢の同級生や下級生を失いました。学校は壊滅(かいめつ)し、廃校(はいこう)に。あの場所を訪れるたび、つらい記憶がよみがえります。

 佐藤さんが通った広島陸軍偕行社付属済美国民学校は、旧日本軍の軍人の子どもたちのために設立された学校です。商店や軍施設が立ち並ぶ広島市中心部の基町(現中区)地区にあり、西練兵場の軍人がよく出入りしていました。

 東京をはじめ日本各地の都市が次々と米軍の空襲(くうしゅう)を受けていた1945年4月、現在の三次市の寺に3~6年生が学童疎開(がくどうそかい)しました。8月5日にも疎開が実施(じっし)されましたが、佐藤さんは「やんちゃ坊主だったし、集団生活で寝小便をするのが恥ずかしくて」広島に残りました。広島原爆戦災誌によると、佐藤さんのような「残留組」は済美国民学校に約150人いたといいます。

 戦争中は授業がない日もありましたが、6日は登校日。「その日は給食が出ると聞かされていたから、みんな朝早くから楽しみにしていたはずです」。しかし佐藤さんは1時間目の国語の宿題をやっておらず、先生に怒られると思うと気が重くなりました。少し遅れて登校しました。

 草津(現西区)の自宅に近い荒手駅(現草津南駅)で電車に乗り、最前列の席から外を眺(なが)めていました。電車が己斐駅(現広電西広島駅)の手前で信号待ちをしていた時、目の前に突然閃光(せんこう)が走りました。学校で訓練していた通りに目や耳を指で押(お)さえて床に伏(ふ)せました。折り重なって倒れた大人たちの隙間(すきま)に潜(もぐ)り込んだ直後「ドーン」とごう音がしました。

 車両が建物のそばで停車していたため、熱線の直撃(ちょくげき)は免(まぬが)れたようです。しかし窓ガラスは割れ、家屋のトタン屋根や土壁が車両にたたきつけられる音がしました。外に飛び出すと「痛い、痛い」と泣き叫(さけ)ぶ声が聞こえてきました。近くの川岸に、全身にガラス片が突(つ)き刺(さ)さった男の子が立っていたのです。佐藤さんたち乗客は逃げるのに必死で、助ける余裕(よゆう)はありませんでした。

 己斐駅に着くと、市街地方面から人々が歩いて来るのが見えました。全身にやけどを負い、皮膚(ひふ)が1センチくらいの厚さでむけて手首から垂(た)れているようでした。その恐ろしい光景に耐(た)えられず、草津の自宅へ引き返しました。

 それから約1カ月後、佐藤さんは1人で学校へ足を運びました。一面、焼け野原。爆心地から約700メートルの校舎は基礎だけが残り、校庭だった場所に数人の子どもの手や足とみられる白骨が散らばっています。すでに登校していた同級生は「全滅(ぜんめつ)」でした。「無の感情でぼうぜんと立ち尽くした」。学校は再開されることなく、その年の12月に廃校になりました。

 佐藤さんは、父皐一(こういち)さんが創立した草津病院(西区)を継ぎ、精神神経科医として長年、院長を務めました。広島電鉄から働き掛(か)けられ、85年に電車内での被爆体験を短い手記にまとめましたが、家族以外にあの日の記憶を進んで語ったことはありませんでした。

 済美国民学校があった場所は戦後、広島YMCA(中区)になりました。その一角に「済美学校之碑」があり、時折、足を運んでいます。「罪のない子どもたちの命を無残に奪(うば)った原爆はいらん」。制服を着て仲良く手をつなぐ児童の銅像に同級生たちの姿を重ねます。(新山京子)

私たち10代の感想

争いをしてはいけない

 佐藤さんの「競争はしてもいいけれど争いをしてはいけない」という言葉が印象に残りました。競争は周りの人と切磋琢磨(せっさたくま)して自分を高めることができますが、争いは傷(きず)つけ合うことしかできないといいます。幼い頃に大人がしていた戦争のむごさを知っているからこそ伝えてくれた言葉だと感じました。(中3桂一葉)

気持ち考えると悲しい

 被爆証言を聞いた後、私たちは佐藤さんと済美国民学校の慰霊碑に足を運びました。佐藤さんの表情が少し暗くなったような気がしました。原爆によって突然学校が壊され、たくさんの友達を奪われた気持ちを考えると悲しくなりました。すべての国から原爆をなくすべきだと、あらためて思いました。(中2中島優野)

(2020年1月27日朝刊掲載)

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