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連載・特集

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第1部 広工廠 <3> 最先端の地

海・空 精鋭技術者育てる

機関部を製造 残る爆撃の痕

 明治末期から大正にかけ、艦艇の動力として蒸気タービン機関が実用化され、第1次世界大戦では飛行機の役割が増した。海軍は海と空それぞれで技術の高度化を迫られた。

「広大学」の称号

 軍港呉に近い「教育の村」だった広村(呉市広地区)は、そうした最先端の技術を支える拠点になっていく。1921年、呉海軍工廠(こうしょう)広支廠が開庁。2年後には広海軍工廠として独立、タービンやスクリューの開発・製造に注力した。航空機部は機体やエンジンの研究・設計を担当。精鋭技術者を育て、「広大学」とも称された。41年には航空機部が独立し、第11海軍航空廠ができた。

 同航空廠の廠長官舎は戦後、企業の福利厚生施設に転用され、昨年11月まで現存していた。文様を刻む柱や飾り暖炉を備えたモダンな造りで、取り壊し前に調査に当たった千田武志・広島国際大客員教授(73)は「廠長の格の高さを示す」とみる。

 広工廠は戦艦大和や武蔵の機関部分も製造。航空廠は艦上爆撃機「彗星(すいせい)」などを量産した。両廠の資料は戦後、多くが焼却されて記録は極度に少ないが、調査を続ける元大和ミュージアム参事の相原謙次さん(65)は「多岐にわたる技術革新で海軍を支えた存在」と指摘する。

生産設備を疎開

 だが、日本本土に迫る戦火がその機能を鈍らせていく。海軍は広への空襲に備え、生産設備を岩国や愛媛県の今治に疎開。航空廠飛行機組立工場主任だった故堀元美さんは77年の著書に「毎日使う工具を四国まで運んで行くなどというのはあまりに非能率」と記している。

 広が集中爆撃された45年5月5日の空襲後、広工廠は廃止されて航空廠に集約され、地下工場などで生産が続けられた。一帯では今も空襲の痕跡をたどることができる。王子マテリア呉工場の事務所にも、厚さ1センチほどの鋼材に機銃掃射の跡と伝わる穴が残る。

 呉市内では空襲で計約2千人が亡くなったとされる。市戦災復興誌は、広も標的になった初空襲の45年3月19日の死者を38人、5月5日は97人とする。堀さんの著書は5月5日について「航空廠全体では戦死工員三十二名、兵員十八名、行方不明者四名」「隣りの広工廠では戦死六十名」と記す。「広大学」に集った多くの精鋭も犠牲になった。(見田崇志)

(2020年1月27日朝刊掲載)

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