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連載・特集

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第1部 広工廠 <5> 伝える努力

空襲の手記集め後世へ

戦争の痕跡地図に記す

 「建物の下には作業服を着た人の足が見えた」「隧道(ずいどう)(トンネル)内に工場があり、爆風が入ってきたが機械を止めてはならず、作業した。それが使命と思った」―。今も脳裏を離れない空襲の光景が手記や手紙につづられている。

 呉市の広郷土史研究会は昨夏から、広海軍工廠(こうしょう)、第11海軍航空廠の動員学徒や女子挺身(ていしん)隊員だった人たちを対象に、仕事や空襲体験などの手記を書いてもらうよう呼び掛けている。

生きた証し残す

 きっかけは、上河内良平会長(69)=広徳丸町=が、広高等女学校の同級生が91歳の今も市内で集まり、動員の思い出などを語り合っているのを知ったことだ。「当時のことをはっきり聞けるのは驚きだった」

 戦後、元士官や工員の集まりは多かったが、メンバーの高齢化で活動は次々に途絶えた。寄贈を約束された資料も、本人が亡くなって処分されることがあった。広高女の集まりに励まされた上河内さんたちが、あらためて体験談を募ったところ、これまでに約20人から寄せられた。

 震える筆跡や家族代筆の文に、当時の苦労や終戦時に覚えたむなしさ、安心感が刻まれている。日時計を手作りし、昼食や退所時間が近づくのを楽しみにした逸話などは、当時の子どもの目線から語られる。「これまで語らなかった自分の生きた証しを残したいという願いがこもっている」と上河内さん。会報に順次まとめ、関係者や県内の図書館に送る。

18年ぶり慰霊祭

 広地区の戦争の記憶を後世に伝える動きは他にもある。広工廠、航空廠の空襲犠牲者や殉職者をまつる工僚神社の慰霊祭は、2018年5月5日、住民有志が18年ぶりに復活させた。

 地元の広南中は同年、「戦跡巡りマップ」の改訂版を作った。機銃掃射の痕跡や航空廠の門柱など地区内の22カ所を巡り、住民たちにも取材してまとめた。

 当時2年生だった広高1年の岩岡真綾さん(16)にとって印象深いのが、広長浜にある石の「母子像」だ。空襲で妻と子を亡くした夫が、遺体を見つけられず建てたと伝わる。「こんな近くに激しい戦争の跡があったとは知らなかった」

 戦後75年のことし、同中は一貫教育に取り組む隣接の広南小とマップを使った活動を検討中だ。岩岡さんは実感を込めて言う。「戦争は駄目だと誰もが知っている。でも、なぜ駄目なのかは、実際に歩いて身近に感じないと分からない」(見田崇志)=第1部おわり

(2020年1月29日朝刊掲載)

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