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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 帰れぬ遺骨 <1> 「梶山ハル」さん

祈念館の遺影 糸口に

市との情報連携 課題

 75年前の夏に焼き尽くされ、戦後は平和記念公園(広島市中区)となった一角にある原爆供養塔。ここに納められている遺骨「7万体」のうち、814体には名前などの記録がある。市は納骨名簿をポスターにして掲示しているが、特に近年は遺族への返還が難しくなっている。

名簿は「鍛治山」

 打つ手はないのだろうか。同じく公園内にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館には、遺族が登録した死没者約2万3千人分の名前や遺影などの情報が公開されている。祈念館の協力を得て、814人の情報とつぶさに照合した。すると、皆実町3丁目(現広島市南区)の梶山ハルさんの遺影に目が留まった。

 納骨名簿には「皆実町三丁目」の「鍛治山はる」さんとある。名前の読み方と住所は一致している。

 市内に住むハルさんの孫武人さん(83)に会うことができた。「祖母に間違いないだろう。引き取って墓に入れてあげたい」。両手で顔を覆い、おえつを漏らした。納骨名簿を見たことはなかったという。

 梶山家は愛宕町(現東区)で餅の製造・販売店を営んでいた。1945年春、戦況の悪化で生活は厳しくなり、父小市さんは家族で旧満州(中国東北部)へ渡る。しかし広島女子高等師範学校付属山中高等女学校へ通っていた4歳上の姉初枝さんは「勉強を続けたい」と懇願し、ハルさんと皆実町3丁目の親族宅に身を寄せることにした。

 広島駅での別れ際、ハルさんは重箱に詰めたおむすびを持たせてくれた。初枝さんは、動きだした列車を追って「手を振りながらホームをタッタ、タッタと走り見送ってくれた」。それが永遠の別れとなった。

 8月6日、2年生だった初枝さんは雑魚場町(現中区)の建物疎開作業に、ハルさんは富士見町(同)に出たまま戻らなかった。武人さんたちは翌46年6月、命からがら旧満州から帰国。母瀧子さんは、2人の悲報を聞いて泣き崩れた。

 2011年に98歳で亡くなった瀧子さんは、生前にこう書き残している。義母ハルさんは実母のような存在で、「主人が養子かと言われるほど仲良く仕事にはげんだ」。広島駅での初枝さんの姿を思い「あの子の涙忘れる事わ出来ない なぜ連れて行かなかつたかくやまれてならない」。

確認記録残らず

 瀧子さんが祈念館に2人の遺影を登録していたことが、今回の取材の糸口になった。武人さんの長男の修治さん(54)=広島県府中町=は「祖母の瀧子はずっと(2人のことを)気にしていました」と振り返る。1月に修治さんから市に問い合わせの連絡を入れ、遺骨返還を視野に調査と協議が始まった。

 それにしても、なぜここまで時間がかかったのだろうか。市は86年まで、理由は不明だが別の名前を納骨名簿に載せていた。原爆供養塔の遺骨をあらためて点検した際、骨つぼの中に「鍛治山はる」と書かれた封筒が入っていたため納骨名簿を訂正。96年になって当時の地元住民が「梶山ハルさんでは」と市に問い合わせたが、市が家族に直接確認しようとした記録は残っていないという。

 原爆供養塔は市が管理し、祈念館は市の公益財団法人が国からの受託で管理・運営している。双方の情報を連携させることはできなかったか。もっと納骨名簿の周知ができないか。

 納骨名簿にある名前と、祈念館の遺影をはじめとするさまざまな死没者情報を横断的に突き合わせば、遺骨と遺族をさらにつなぐことができる可能性がある。ただ、成果は簡単には出ないかもしれない。初枝さんの遺骨も、見つからないままだ。(山本祐司)

(2020年2月4日朝刊掲載)

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