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ヒロシマの空白 被爆75年 帰れぬ遺骨 <2> 「琢夫」と「宅雄」

墓の骨は誰 募る疑問

供養塔に似た名前

 広島市中心部から北東へ車で約1時間の安佐北区白木町。1945年当時は高田郡志屋村だった山あいの地で、矢野琢夫さんは生まれ育った。県立広島工業学校(現県立広島工業高)1年だった12歳の時、原爆の犠牲になった。

 生家には現在、琢夫さんの兄の妻美和子さん(87)が住む。「生きてたら私と同い年のはずでねえ」。生前の義父節次さんと義母シゲさんから聞かされた思い出を語ってくれた。

 琢夫さんは地元の志屋国民学校(現志屋小)を45年春に卒業。通信簿に「優」が並び、成績が良かった。兄も学んだ「県工」へ進み、広島市内の親戚の家に下宿した。8月6日朝、1年生約190人は中島新町(現中区)での建物疎開作業に動員された。

 爆心地から約600メートルで熱線に焼かれた。「広島原爆戦災誌」は「無数に横たわる全裸の死骸(しがい)からは、生徒の一人一人を識別することはできなかった」と現場の惨状を記す。

打ち明けた義父

 市内で懸命に息子を捜した節次さんは、骨つぼを抱いて戻ってきた。学校関係者から「息子さんです」と言われたという。だが後になって美和子さんに打ち明けた。「誰の骨か分からんまま受け取った」

 県工の同窓会事務局は生徒の犠牲者名簿を保管している。琢夫さんの死亡場所と日時は「以(似)島」「昭和20・8・12」。似島には8月6日から20日間で被災者約1万人が運び込まれたとされる。戦後に遺骨の発掘作業がたびたび行われ、平和記念公園(中区)の原爆供養塔に移された。

 その供養塔の納骨名簿に「矢野宅雄(高田郡穆木)」の名前がある。美和子さんと同居する長女、渡久山(とくやま)裕子さん(66)は15年前、健診で訪れた広島市民病院(中区)に掲示された名簿のポスターに目を奪われた。

 「叔父の『矢野琢夫』では…。墓に入っているはずなのに」。名前の読み方は同じ。「穆木」という地名は知らないが、「高田郡」までは一致する。心の中で疑問が膨らんでいった。

 同じ頃、1人の男性が裕子さんを訪ねてきた。中区の元高校教員、島本和成さん(81)さんだ。被爆時に大やけどを負った母を持つ。供養塔の遺骨を人ごとと思えず、遺族捜しを1人で続けていた。その中で「高田郡の矢野さん」にたどり着いた。

 裕子さんの思いに耳を傾けた島本さんは、市の窓口に出向いた。しかし大きな壁に突き当たる。市は79年、節次さんに「矢野宅雄」さんに関して問い合わせ、「(琢夫さんの)遺骨はすでに受け取っている」と返答を得ていた。

 一昨年、裕子さんは市役所で節次さんからの返信はがきを見せられた。市はこれを根拠に「琢夫さん」と「宅雄さん」は別人と判断しているという。「現状では返還は難しいと受け止めました」と裕子さん。

DNA鑑定に壁

 持ち帰ったのは息子の遺骨、と自らを納得させようとした祖父の心情は痛いほど分かる。どちらの遺骨も理不尽な死だったことに変わりはない。「ただ、もし身元を特定する方法があるなら懸けてみたい」と話す。

 戦争に関係する海外の地や沖縄で日本政府が進める戦没者の遺骨収集では、家族が希望すればDNA型鑑定を行っている。原爆犠牲者はどうか。市原爆被害対策部調査課は「多くは焼骨で、鑑定は難しいと有識者から聞いている。実施した例はなく、予定もない」。

 科学技術は大きく進んでも、引き取り手のない遺骨を遺族に返す方策は変わらない。もどかしさを覚える。(山本祐司)

(2020年2月5日朝刊掲載)

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