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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 帰れぬ遺骨 <3> 天神町66番地

資料館周辺 生活の場

納骨名簿に「三木」さん

 「天神町66」。原爆供養塔の納骨名簿にある814人の名前を目で追い、「三木順次」さんの家の住所まで読み進めた時、記者は、はっとした。ちょうど原爆資料館東館(広島市中区)の辺りだ。同町を含む旧中島地区は、かつて広島随一の繁華街。現在は平和記念公園になっている。

 原爆で壊滅したこの一帯を「再現」しようと中国新聞が2000年に作成した「街並み復元図」は、66番地と周囲に「空白」が残る。「三木順次」さんの名前によって、一つでも埋めることができるだろうか。

 「これが66番地が面していた通りです」。同館学芸課の菊楽忍さんが、1枚のカットを見せてくれた。撮影者は、66番地の南隣にあった「66の2」で家紋を扱う「紋屋」を営んでいた故菊地繁三さん。店の前でカメラを構え、北に延びる「旧天神町筋」を捉えた写真のようだ。子どもが笑顔で駆けている。「三木順次」さんも、ここを歩いていたのかもしれない。

五反田家の隣人

 1945年8月6日。菊地さんは、召集され激戦地ニューギニアにいた。66の2に住んでいた兄の重郎さん=当時(33)=とその妻子4人が全滅した。取材を通して、菊地さん宅の西側を五反田寿男さん=同(54)=と妻イシ子さん=同(50)=が借りて住んでおり、被爆死していたことも新たに分かった。

 納骨名簿の情報が正確ならば、五反田家の「隣人」は66番地の「三木順次」さんだったはず―。

 五反田さんの長女の掛井千幸さん(90)=東広島市=は「数軒北に大きな天城旅館があり、お相撲さんや軍人が出入りしていましたねえ」と振り返る。しかし「北隣も、中庭があって奥行きがある菊地さんの家のような造りだったように思いますが、75年もたつと…」

 五反田家は元安川を挟んだ大手町に住んでいたが、両親と3人で被爆の1年ほど前に移ってきた。掛井さんはあの日、休暇で県北の祖父母宅にいた。広島に戻り、爆心直下の自宅跡で金歯などから両親の遺骨を確認した。市中心部で、焼かれて男女の見分けもつかない赤黒い遺体を数多く見た。菊地さんの兄一家の遺骨も見つかっていない。

 さらに被爆者の体験証言集や遺族の手記などを読み進める中で、66番地の元住民の孫が残した証言を入手できた。

裏付け得られず

 ただ名字は、三木ではなく、大草。三五郎さん=同(67)=と妻タメさん=同(58)=の2人世帯が全滅した。戦後生まれのひ孫の靖久さん(60)=西区=は「三木さん…。親戚にもない名前です」と首をかしげる。

 菊地家と五反田家のように、大草家と三木家も一軒家を分けて住んでいた可能性も考えられるが、確たる裏付けは得られていない。情報を求め、地元の慰霊祭に携わった故山崎寛治さんの遺品にも目を通した。元住民で作成した「犠牲者名簿」を残している。そこには三木姓が2人いるが、名は違う。番地の欄はない。

 原爆資料館東館には毎日、国内外からの観光客が数多く訪れている。かつて生活の場だった、と実感する人はどれだけいるか。市は東館の北側で、旧天神町筋の一角の遺構を展示施設として整備、公開する計画を進めている。ここで生き、命を奪われ、家族の元に遺骨が戻っていない住民の存在を伝える場となるだろう。

 取材の中で、大草家と五反田家など3世帯6人の住んでいた場所や被爆死については新たに確認できた。三木さんら元住民たちの「空白」を埋める努力も、まだこれからだ。(水川恭輔)

(2020年2月6日朝刊掲載)

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