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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 帰れぬ遺骨 <10> 県北の集落で

死者の無念思い続け

墓を建て 遺族捜し

 原爆犠牲者の遺骨収集や返還は「やるならば、自治体」。それが日本政府の方針という。一方で、死者を思い、遺骨と肉親を「再会」させようとしてきた市井の人たちがいる。

韓国人家族たち



 広島市中心部から北へ車で約1時間半も走れば、記録的暖冬とはいえ別世界だった。北広島町芸北地区の浄謙寺を訪ねると、雪景色の中に「追悼 韓国人原爆犠牲者」の文字が見えた。

 日本が植民地支配していた朝鮮半島から家族で広島に渡り、被爆死した女性、李末任(イマリム)さん=当時(43)=ら5人の追悼碑だ。うち3人の遺骨が眠る「墓」でもある。日本式の名前で記された人もいる。

 遺骨は、李さんの夫の石川文吉さんが日本の敗戦後に古里へ帰る際、寺に託した。「近くの山で炭焼きをして暮らしていたそうです」と住職の浄謙彰文さん(69)。最初は木柱の碑を立てたが、後に浄謙さんの亡き父が韓国産の御影石に造り替えた。

 「便りをします」と言ったきり、韓国の文吉さんから連絡はなかった。無事に帰国できたのか―。浄謙さんは1986年、知り合いの研究者に捜し歩いてもらった。手掛かりは、文吉さんの出身地だと聞いた「慶尚北道高霊郡」の集落。すると、バスも通らない山あいの集落に長男夫妻が住んでいることが分かり、一家の消息をつかむことができた。

 李さんは、芸北から広島市河原町(現中区)の親戚宅に出ていて被爆。広島鉄道局に勤めていたという李さんの次男、親戚とその子ども2人も犠牲になった。妻子らを奪われた文吉さんは、帰国後も失意から立ち直れないまま53年に死去した。

 「すぐにでも参りたいが、貧しくて…」と長男夫妻は残念そうに語ったという。それから34年。文吉さん家族が帰国後も苦労を重ねたことを思いながら、浄謙さんは父から受け継いだ追悼碑の前で犠牲者の供養を続けている。

世話をした男児



 北広島町の東隣の安芸高田市吉田町では、三木チズエさん(91)が幼い男児の小さな墓を守っている。義父の四平さんが生前「戦災孤児 俗名 進」と刻み、自宅そばの三木家の墓地に建てた。

 「進」さんは被爆翌日の8月7日、負傷者を乗せたトラックで運ばれてきた。都市機能が壊滅した広島から市外各所の臨時救護所へ、負傷者が続々と収容されていた時期だ。

 男児は親とはぐれたようで、名前は分からない。救護に当たっていた四平さんにすぐなつき、ついて歩いた。ふびんに思った四平さんが9日、許可を得て家に連れ帰った。額や胸に傷を負っていたが、おいしそうにご飯を食べ、刀を提げた軍人が描かれた絵本を「お父ちゃん」と指さした。馬を見て「ススムもほしい」と喜ぶのを聞き、名前を仮に「進」とした。

 四平さんに背負われ、毎日救護所で傷の手当てを受けていたが、15日に容体が急変。「お父ちゃん」「お母ちゃん」と泣き叫びながら息を引き取った。

 四平さんは墓に「進」の名を記し、遺骨を埋めた。幾度となく、広島市へ遺族捜しに出向いた。70年に亡くなるまで「かわいい子じゃったと、ことあるごとにこぼしとった」とチズエさんは振り返る。

 「遺骨を里帰りさせてあげたい」(73年7月28日付中国新聞)―。チズエさんの思いが本紙などで報じられると、75年夏に原爆で妻子を失った神戸市の元軍人が名乗り出た。3歳で行方不明になったわが子、藤田奬(すすむ)さんだと。

 遺骨は引き取られたが、「進」さんの墓にも骨を一部残してもらった。チズエさんは今も毎朝、手を合わせている。胸にあるのは、すべての「家族の元に帰れん子どもたち」の無念である。(水川恭輔)

(2020年2月16日朝刊掲載)

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