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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 帰れぬ遺骨 <11> 母の日記

捜し続けた子 どこに

「非人道性」伝える

 「杜夫、あなたは今どこにゐ(い)る」「火を潜っても貴方(あなた)に逢ひ度(た)い一心」―。広島市中区の原爆資料館は、三重野松代さん(1982年に82歳で死去)の自筆の日記を所蔵する。75年前の夏、12歳だった息子を捜し求め焦土を歩いた日々をつづる。

 広島県立広島第一中学校(現国泰寺高、中区)1年だった長男杜夫さんは8月6日朝、「行って参ります」と学校近くでの建物疎開作業に出て、原爆の熱線に襲われた。

 市中心部から巨大な雲が上がっていく。松代さんは、杜夫さんを捜しに郊外の井口村(現西区)の自宅を飛び出した。たどり着いた校舎は跡形もない。生徒たちの亡きがらが横たわっていた。「殆(ほと)んど全裸になって火傷(やけど)を負ひ瀕死(ひんし)の状態に在(あ)る方をも、すでに息を引き取ってゐる方をも、貴方と同じ年格好の人と見れば一人一人近よって」みたが「火傷で容貌が全然わからない」。

 8日夜になって知人づてに「鶴見橋の東側にいたのを見た」と聞いた。顔や胸にやけどを負って倒れ、「お水が欲しい」と請うていたという。鶴見橋に近い比治山橋までは捜していたのに、と自分を責めた。「足を伸ばさなかった後悔、貴方に申訳(もうしわけ)なくて、胸を八裂(やつざき)にされるやうです…かんにんして、許して、頑張ってゐて」

半紙燃やし葬儀

 鶴見橋に駆け付けると、すでに負傷者は軍に収容されたと言われた。夫の定夫さんが市沖合の似島や金輪島も捜したが、見つからない。9月21日、半紙に「三重野杜夫」と書いて燃やし、葬儀とした。

 絞り出すように言葉を紡いだ、母の日記。2004年に原爆資料館へ託したのは、杜夫さんの姉の茶本裕里さん(90)=東京都東村山市=だ。自身は当時、県立広島第一高等女学校(現皆実高)4年。その日は休みだったが、建物疎開に動員されていた1年生223人が全滅した。

 父定夫さんは海軍の軍人で、一家は1945年春に神奈川県から一時転入したばかりだった。「杜夫がどこかにいると思うと、広島から離れられなかった」。戦後10年以上、地縁のなかった広島にとどまった。

 松代さんは、水を求めたという杜夫さんの遺影に毎朝、水を供えた。「弟は笑顔にあふれ、両親に愛された子でした。わが子の遺骨すら帰ってこない親の悲しみを知ってほしい」と茶本さんは語る。

 「両親がどれだけ捜しても、姉は見つからないままです」

 被爆者の藤森俊希さん(75)=長野県茅野市=の姉敏子さん=当時(13)=は、広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高)1年の時被爆死した。遺骨は今も不明だ。現在の平和記念公園(中区)南側で建物疎開作業に動員されていた市女1、2年生541人が全滅した。

 日本被団協事務局次長の藤森さんは遺族としての悔しさと怒りを胸に、姉のことを語りながら世界で「核兵器の非人道性」を訴え続けている。

世界が耳傾けて

 家族や地域と断ち切られた、おびただしい数の犠牲者の帰れぬ遺骨。わずかだが、中には名前が分かるものもある。行政の情報や個人の手記などを調べ直せば、遺族を捜し当てることはまだできる。

 同時に、原爆供養塔(中区)の「約7万体」をはじめ、実数や身元について分かりようのない遺骨が多数存在する。その「空白」自体、たった1発の原爆が一瞬で都市を壊滅させ、人間を身元確認もできないほどに焼き尽くしたという事実を突きつける。

 藤森さんたち被爆者が国連の議場で見守る中、核兵器を「非人道兵器」とする禁止条約が17年に実現した。人間の尊厳を奪われた末、供養塔に、あるいは市中心部や沖合の島の地中で眠る骨の「声なき声」。世界が耳を傾けるべきだ。(水川恭輔、山本祐司)

(2020年2月17日朝刊掲載)

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