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社説・コラム

ノモンハン=ハルハ河紀行 大西夏奈子

戦勝を祝う国 記憶を消す国

 昨年はノモンハン事件から80年の節目だった。真相は「事件」ではなく、戦争である。モンゴル東部と中国との国境付近を流れるハルハ河が戦場。モンゴルではハルハ河戦争と呼ぶ。

 発端は、日本のかいらいだった満州国と、ソ連の衛星国だったモンゴルが、国境線の位置でもめたことだ。小競り合いはやがて本格的な空中戦と地上戦へ発展。当時の最新兵器を大量投入したソ連軍に対し、日本軍は旧式の兵器や火炎瓶を武器に「気合」で挑んだ。結果は日本が惨敗し、両軍ともに2万人前後の死傷者を出したといわれる。

 停戦交渉が成立すると直ちにソ連はポーランドに侵攻した。一方、日本の軍部は敗戦の事実を国民に隠そうと、生き残った将校たちに自決を求めた。そもそも正式な宣戦布告はなく、満州にいた関東軍が大本営の許可を得ずに暴走したのだからと、戦争ではなく事件扱いしたのである。

 あたら人材を失いながら関東軍の司令塔だった辻政信と服部卓四郎は後に大本営で大出世した。トップが責任を取らず、失敗の教訓を生かさないまま、日本軍は戦線を南方へ。太平洋戦争に突入していく。

 司馬遼太郎はノモンハン事件を10年間取材しながら、ついに作品として仕上げることはなかった。「日本の秘密というのは、日本の弱点を秘密にしているだけのことですね。ばかばかしくて、こんなものを書いていると精神衛生上悪いと思って書きませんでした」と講演録にはある。

 昨夏、私はモンゴルやロシアの写真家たちとハルハ河を訪れる旅に参加した。首都ウランバートルから車で片道1300キロを走る道中、ドルノド県でロシア軍の戦車隊に遭遇した。なぜロシア軍がモンゴルにいる。兵士に尋ねると「ハルハ河戦争80周年記念式典のためだ」と答えた。

 翌日ようやくハルハ河に到着。そこは細長い河、風の音を聞く大草原のほかはソ連とモンゴルが建てた戦勝記念碑がぽつんとあるだけだった。80年前、ここで激戦に身を投じた兵士たちの心細さを感じた。

 ウランバートルへ戻ると、ロシア軍戦闘機による航空ショーやプーチン大統領も出席した記念式典が盛大に催されていた。ロシアの寄付金でハルハ河の古い村を建て替えるという計画も実行に移される。

 80周年フィーバーへのモンゴル人の反応は分かれていた。「誇らしい」と喜ぶ人と「経済が苦境にあるロシアは国の強さを誇示すべく過去の戦争を正当化している。ハルハ河戦争をプロパガンダに利用している」と冷めて見る人だ。

 かつての戦いで、モンゴルは大きな犠牲を払った。草原に暮らしていたモンゴル諸部族は、民族の統一を果たして独立するという熱い夢を内に抱きながら、中国、ソ連、日本など大国の思惑に翻弄(ほんろう)され、別々の国に属して戦火を交えた。独立を阻止したいスターリンは反逆罪やスパイ罪で約2万人のモンゴル人を粛清し、満州国の関東軍も数は少ないが同様に処刑した。

 モンゴルから帰国後、私は数年ぶりに広島を訪れて原爆資料館や放射線影響研究所を見学した。特に原爆資料館では、若者や外国人観光客がぐっと増えていたのが印象的だった。

 私の祖母は広島で、医師だった祖父は長崎と広島で入市被爆しているが、二人とも終生、原爆の体験をあまり語りたがらなかった。「原爆ドームを早くなくしてほしい」と口にした祖母の険しい表情を見て以来、二度と思い出したくないのだろうと察し、私はその話をするのをやめた。

 今は存命中にもっと話を聞いておけばよかった、と後悔してもいる。「記憶のリレー」から自分自身が逃げてしまったのだ。

 ロシアとモンゴルは80年たってなお、過去の戦勝を祝う。対照的に日本ではほとんど話題にもならず、同じ歴史でも温度差がこれだけあることに驚く。

 歴史を後世に生かすか、封印するか。司馬遼太郎が日本に絶望するような歴史的惨事だからこそ、ノモンハン事件(ハルハ河戦争)には日本人が冷静に学び取るべきことがあるはずだ。2020年は戦後75年であり、被爆75年である。「1939年」にまでさかのぼり、何が軍部を暴走させたか、いま一度考え、記憶のリレーを続けたい。

おおにし・かなこ
 編集者。1980年広島市西区生まれ。東京外国語大モンゴル語学科卒。出版社・日本図書センターで「原爆写真―ノーモア ヒロシマ・ナガサキ」の編集などを担当。現在はフリー。モンゴルの雑誌や新聞にも寄稿している。東京都杉並区在住。

(2020年2月20日朝刊掲載)

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