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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 竹岡智佐子さんー母はどこ 街は遺体の山

竹岡智佐子(たけおか・ちさこ)さん(92)=広島市安佐南区

体験証言40年 平和の種を植えようと

 17歳だった竹岡(旧姓土居)智佐子さん(92)は、母を捜(さが)すため被爆直後の広島市内をさまよいました。焼き殺された赤ん坊、白骨化した少女を目にしました。「戦争は絶対反対。平和の種を植えよう」と約40年間、体験証言を続けています。

 千田町(現中区)にあった広島女子高等師範学校付属山中高等女学校を卒業後、女子挺身隊(じょしていしんたい)として西天満町(現西区)の東洋製罐(とうようせいかん)に動員されていました。当時は人間魚雷(にんげんぎょらい)を造る軍需工場(ぐんじゅこうじょう)。8月6日は夜勤明けで休みだったため、友達と宮島へ行くことにしました。

 己斐町(同)の自宅の玄関で手鏡を出し、髪を整えていた時です。ピカッと光った後、ドーンという爆音とともに裏の畑へ吹き飛ばされました。爆心地から3キロ離れた高台でも家の屋根や窓は吹き飛んでおり、市内を見下ろすと、「黒い塊(かたまり)」がぞろぞろ登ってきます。髪(かみ)が焼け、やけどで全身の皮がむけた人の群れでした。近所の人と「しっかり」「死ぬんじゃないよ」と声を掛(か)けながら水を飲ませました。

 相生橋近くの陸軍病院で看護師長を務めていた母の国貞(くにさだ)リョウさん(当時42歳)が帰ってきません。翌朝、水でぬらした防空頭巾をかぶり、捜しに出ました。相生橋にたどり着くと石の欄干は崩れ落ち、川も岸辺も焼けただれて膨れ上がった遺体で埋(う)め尽くされていました。

 「足が震(ふる)えて『アメリカを許さんぞ』という怒りがこみ上げてきた」と竹岡さん。川を次々と流れてくる遺体を引き揚げていた衛生兵に「お母さんがおらんか捜してみんさい」と薦(すす)められ、遺体の口を木切れでこじ開け、金歯が3本あるか確認しました。

 6日間、市内を歩き回り江波国民学校(現江波小)を訪ねると、顔に包帯を巻き、机の上に横たわった人から「ちぃちゃん」と呼び止められました。母でした。あの日の朝、用事があったため爆心直下の職場ではなく、舟入病院(現中区)へ出かけ、即死(そくし)を免(まぬか)れていたのです。

 自宅へ連れ帰り、包帯をほどくと右目は梅干しのようにつぶれ、飛び出ています。戸坂村(現東区)の国民学校に医師がいると聞き、リヤカーで母を運びました。しかし、麻酔(ますい)も手術台もありません。獣医師(じゅういし)がメス1本で母の目をくり抜きました。「ぎゃー」という叫(さけ)び声が耳を離れませんでした。

 リョウさんはなんとか回復し、約20年間、生き延びました。竹岡さんは1947年に20歳で結婚。すぐに長男弘訓ちゃんを授かりますが、生後18日目に突然息を引き取りました。亡きがらを抱いて広島赤十字病院で診てもらうと、死因は「原爆症」と言われたそうです。母を捜した際、体に紫の斑点(はんてん)が出て吐き気に苦しんだ記憶がよみがえりました。

 何年たっても体をむしばむ原爆。憤(いきどお)りを胸に地域で体験を語るとともに被爆40年に証言集も出版。82年には米国で開かれた第2回国連軍縮特別総会で証言に立ちました。8年前から広島市が養成する「被爆体験伝承者」の講師も務め、長女の東野真里子さん(67)たち12人が語り継いでいます。

 昨年11月にローマ教皇が平和記念公園を訪れた際、被爆者代表の一人として集いに参加しました。「平和の種を植えてきました」と証言活動に懸ける思いを伝えると、教皇にぎゅっと手を握(にぎ)られました。「共に平和な世界を目指して頑張ろう」という意志だと感じています。

 「私の証言を聞いた子は素直に『戦争はしちゃいけないね』と声を掛けてくれる。一人でもそういう人を増やしたい」。90歳を超(こ)えた今も、その思いは衰えていません。(桑島美帆)

私たち10代の感想

大学でも発信していく

 生まれてからずっと平和な生活をしている私たちが戦時中の暮らしを実感することは難しく、想像することしかできません。私はもうすぐ高校を卒業しますが、学校に通えたのも平和だからだと感じました。「戦争は絶対にだめ」と力強く語る竹岡さんの思いを受け継ぎ、大学生になっても平和な世界の創造につながることを発信していきたいです。(高3鬼頭里歩)

家族奪う戦争許せない

 「手術中に聞こえた母の叫び声が生き地獄(じごく)のようだった」という竹岡さんの言葉が印象に残りました。もし私が、家族の苦しむ姿を見たら怖(こわ)くなると同時に、戦争は許せないという怒りも湧(わ)いてくると思います。戦争は大切な人を奪(うば)うだけでなく、生き残った人もつらい思いをすることに気付かされました。次の世代に伝えていかなければ、と感じました。(中1俵千尋)

大変な時でも人助けを

 原爆が落とされた直後、竹岡さんは浴衣で三角巾を作り、ガラスの破片が体中に刺さったおばあさんたちの応急手当をしました。自分のことよりも周りの人々に救いの手を差し伸ばしたのです。この話を聞いたとき、竹岡さんの行動を素晴らしく感じました。僕もどんな大変な状況でも、困っている人の手助けを積極的に行いたいと思います。(高3ウォルシュ・フィリックス)

(2020年3月2日朝刊掲載)

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