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[ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現] 旧中島地区と周辺㊤「旧中島本町」

平和公園 ここは街だった

犠牲の家族 生きた証しを

 元安川と本川に挟まれたデルタ地帯に広がっていた旧中島地区は、商店や住宅がひしめく生活の場だった。第2次世界大戦末期の1945年8月6日、地区の北側に架かる相生橋を目標に、米軍が原爆を投下。爆心直下の街は徹底的に焼き尽くされた。その地に戦後整備されたのが、緑豊かな平和記念公園(広島市中区)である。地区の中でも特に「あの日」までにぎわっていた中島本町の被爆前を、写真からたどる。(山下美波)

 「私の家です。こんなに古びていたのね」。広島市南区の高松翠さん(86)が、モノクロ写真を手に取り、懐かしそうに笑った。中島本通りを、着物姿の女性や学生が行き交う。「かもじと化粧品」と書かれた看板の一部が見える建物は、父の木原真一さんが営んでいた店「廿日市屋」。高松さんの生家でもある。

 写真は、現在の原爆慰霊碑近くにあった「スター写真館」の経営者遺族が2014年、広島市公文書館に寄贈した一枚。原爆に全てを焼かれてしまった高松さんにとって、被爆前のわが家のたたずまいを目にするのは75年ぶりだ。

 廿日市屋は、大正屋呉服店(現レストハウス)の2軒西隣にあった。高松さんは、学校が終わると元安川で泳ぎ、広島県産業奨励館(現原爆ドーム)の対岸でままごと遊びを楽しんだ。

 1945年4月、中島国民学校6年だった高松さんは、家族から離れて県北に学童疎開した。木原家は、空襲時の火災に備えて空き地をつくる「建物疎開」でほどなく立ち退き、慈仙寺近くに移った。現在の原爆供養塔の北側に当たる。

 8月6日、原爆が投下された。家を出て学徒動員先へ向かっていた姉と兄は無事だったが、両親と弟2人が犠牲になった。自宅跡に真一さん=当時(48)=と母政子さん=同(42)=とみられる遺骨があったと姉から聞いた。弟寛さん=同(4)=と稔さん=同(1)=は行方不明のままだ。

 長年、平和記念公園にはどうしても足が向かず、原爆に関して進んで語ろうとしなかった。そんな高松さんの心境が変化し始めたのは、20年ほど前。元住民との交流を深める中で、レストハウスの保存・活用策にも関心を寄せるようになった。「公園内で唯一残る被爆建物を残していくことは、家族が生きた証しにもなる。最初から公園だったと誤解されたくない」

 現在、レストハウスの改修工事が進んでいる。被爆75年の節目を控えた7月に再オープンし、旧中島地区について伝える展示スペースが設けられる予定だ。

 大正屋呉服店は、戦争中の繊維統制令で1943年に閉店。被爆時は県燃料配給統制組合の「燃料会館」として使われていた。爆心地から約170メートル。職員37人のうち8人が建物から脱出できたものの、奇跡的に助かった1人を除き全員が犠牲となった。

 浜井徳三さん(85)=廿日市市=の親戚、浜井ミサ子さん=当時(22)=もその一人だ。地下室で被爆後、元安橋の下で一晩過ごした。翌日、浜井さんが疎開していた宮内村(現廿日市市)へ逃げてきた。

 その後、浜井さんの祖母宅に身を寄せたミサ子さん。目立った外傷はなかったが、8月23日に大量の血を吐いた。浜井さんは、手を振りながら息絶えたミサ子さんの最期が忘れられない。

 「廿日市屋」に近い「浜井理髪館」で育った浜井さん自身、家族4人を奪われ一人生き残った。遺骨は見つかっていない。「今も家族がどこかに隠れているのではないか、と感じて」。時間を見つけては平和記念公園に足を運ぶ。

 高松さんと浜井さんは、爆心直下の元住民の証言を集めている市民団体「ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会」で語るなどして、旧中島本町の記憶を次世代に伝えている。「父たちは一生懸命、ここで生きていた」。国内外からの観光客や修学旅行生に、自分たちが暮らした街の姿を実感してもらいたいと願う。

(2020年3月9日朝刊掲載)

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