×

ニュース

被爆オリンピアン 肉声現存 13分 闘病・写真撮影語る 故高田静雄氏

広島市出身 36年出場

 原爆症で逝った広島市出身のオリンピアンの肉声が現存していた。高田静雄氏(1909~63年)が、1936年ベルリン五輪砲丸投げ出場、被爆、病床から始めた写真撮影、自作が60年ローマ五輪の写真展に選ばれた波乱の半生を語る。同年のラジオ番組を録音したとみられる約13分のテープが残る。各放送局にもほとんど残っていない時期の被爆者証言でもある。(西本雅実)

 「オリンピックならびに写真について/高田静雄氏語る/(昭和)35年8月」。箱に記されたオープンリールのテープを、孫で写真家の高田トシアキさん(本名敏明)さん(57)=広島市西区=が、父敏さん(2008年死去)の遺品から見つけ、劣化したテープの再生にこぎ着けた。

 「原爆症と闘いながらカメラのレンズに再起の夢を託し、見事これを果たしました元オリンピック選手の話題を…」。録音テープは女性の声で始まり、静雄氏は現西区内で営んでいた洋食店で男性のインタビューに体調面から答えていく。

 「肝臓がいつも腫れ…歩行がやねこいですね」。45年8月6日、爆心地から約680メートルとなった勤め先の中国配電(現中国電力)本店で被爆。「ビルの中にいたことでまあ、死だけは免れた」瞬間も証言する。

 写真撮影のきっかけは、「原爆症で寝とる時にですね、カメラ雑誌を読みまして…」。50年代に入ると、体調を見計らいながら撮影に打ち込んだ。平和記念公園の原爆慰霊碑前で米国人夫婦を撮った写真は、日本写真協会の会報誌に載り、広島の高校生選手らを写した作品で、陸上競技専門誌で連載を持つようになる。

 「足の若さ…指先までの神経を」捉えた「準備運動」と題した自作が60年、イタリア・ローマ郊外の文化宮殿を会場とする五輪芸術競技参加の「スポーツ写真作品展」に選ばれた。日本からの入選10点でただ一人のアマチュアだった。

 番組は、「二度のオリンピック出場」の静雄氏と交流がある著名写真家のインタビューも収める。しかし、広島で放送されていたNHK第1・2や現中国放送の60年8月ラジオ番組覧、NHKの同時期の内部資料にも当該の番組・出演者名はなく、出典は現時点では不明。NHK広報部は、60年時の音源が残っているのは少ないともいう。

 祖父のネガを検証するトシアキさんは、「高田静雄展 平和への道」とベルリン五輪出場時に撮っていた写真を含む約60点を、西区の泉美術館で5月から公開する予定。「激動の時代を生き抜いた静雄の思いに触れてほしい」。肉声内容は文書で紹介する考えだ。

(2020年3月15日朝刊掲載)

年別アーカイブ