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連載・特集

[ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現] 旧中島地区と周辺㊦「旧材木町など」

下町の薫り 今は祈りの地

 平和記念公園(広島市中区)のおおよそ南半分は、かつての材木町、天神町北組と元柳町。毎年8月6日には平和記念式典の会場となり、芝生広場と周辺に世界各国の代表や市民、約5万人が参列する。観光客が原爆慰霊碑に手を合わせ、原爆資料館でヒロシマに触れている。ここに、75年前までどんな日常があったのだろうか。(山下美波)

姉に連れられ映画館へ 原爆投下で途切れた思い出

 東西に高床式の建物が延びる原爆資料館本館。改装と耐震補強を機に2015年11月から約1年5カ月間、発掘調査が行われた。敷石がはぎ取られ、「封印」されていた焼け跡が姿を見せた。黒焦げのしゃもじ、溶けた牛乳瓶…。「今中圭介」と彫られたすずりも出土した。

 「ここで生まれ育ったことを、長い間明かしていませんでした」。本館の北東側に立ち、今中圭介さん(84)=安佐南区=が語った。

 貿易商を営む両親の元に育った。生家「今中商会」は、現在の資料館本館や芝生広場をほぼ南北に走っていた「材木町筋」沿い。近所の誓願寺にあった無得幼稚園に通い、境内で竹馬、墓地では肝試しをした。下町情緒の残る一角だった。

 1945年春、今中さん一家は八木村(現安佐南区)へ疎開した。8月6日、紙屋町(現中区)の住友銀行広島支店に勤めていた姉博子さん=当時(17)=は、朝早く家を出たきり行方不明に。娘を捜し歩いた父圭三さん=同(49)=も2カ月後、被爆の急性症状に苦しみ亡くなった。「洋風の外観が目立っていた」自宅は焼け落ちた。

 行動的だった生前の博子さん。女学生1人での映画観賞はご法度だった時代に、幼い今中さんを同行させ、近くの中島本町の映画館で「弟が見たがっている」と入り口をくぐった。「帰りに『一銭洋食』を買ってくれました。親への口止めです」。年の離れた姉との数少ない思い出だ。

 そんな博子さんの写真を、同じ材木町に住み、広島女子商業学校(現広島翔洋高)の同級生だった高橋昌子さん(91)=埼玉県川口市=が大切にしている。制服姿の2人の記念写真。仲の良さが伝わってくる。

 博子さんは、体が弱くてよく寝込んでしまう高橋さんを見舞う優しい友人だったという。高橋さん自身は岡山県内の祖母宅にいて直爆を免れたが、軍需品を扱う家業「井上商工」の作業場にいた姉井上濱(はま)子さん=当時(21)=や従業員を失った。戦後は埼玉県原爆被害者協議会で活動し、国内外で被爆証言を続けてきた。

 記者は、高橋さんから写真の複写を預かった。それを見た今中さんは「こんなに鮮明な一枚があったとは」と驚き、高橋さんに初めて連絡した。記憶を語ってもらいながら、あらためて痛感したという。「姉の青春を奪った原爆がいかにむごいものかと」

 爆心直下の旧中島地区。今中さん宅の近所でも一家全滅が少なくない。地中に眠っていたすずりとの「再会」を機に、今中さんも体験証言を始めている。

このほか写真150枚 31日からサイトで公開します

 このほかの旧中島地区と周辺の写真約150枚を、31日にウェブサイト「ヒロシマの空白 街並み再現」で公開します。広島市内の被爆前を捉えた写真の募集もしています。 https://hiroshima75.web.app/

(2020年3月17日朝刊掲載)

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