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被爆前 缶詰工場と歩んだ証し 隣接邸宅の図面 広島市に寄贈へ 創業者の孫 活気を示す資料に

 広島市鉄砲町(現中区)で戦前に缶詰工場を営んだ松浦泰次郎氏(1872―1953)の孫の功さん(82)=中区=が、工場に隣接していた邸宅の見取り図などの図面6枚を保管している。爆心地から約800メートルにあり、原爆で壊滅した街並みの一部を知る手掛かりとなる貴重な資料。近く市へ寄贈する。(桑島美帆)

 松浦氏は、実兄の加藤多市氏と共同で1895年、空鞘町(現中区)で缶詰製造所を創業。日露戦争の軍需で業績を伸ばし、1905年に独立した。鉄砲町の工場は13年前後の建設で、30年頃に社名をそれまでの「松浦商店」から「山陽缶詰」に変更した。市郷土資料館(南区)によると、牛肉やミカン、マツタケなどの缶詰を軍に納入していたという。

 寄贈する6枚は、邸宅用地約2260平方メートルを30年12月に測量した「実測図」など。工場南隣にあった邸宅の見取り図からは、敷地内に広い庭や茶室があり、貸家も並んでいた様子がうかがえる。松浦邸に下宿して県立広島第一高等女学校(現皆実高)に通った親戚の河野良枝さん(92)=安芸区=は「広い屋敷だった。お使いで工場に行くと、大きな牛肉の塊がぶら下がり、従業員が大勢出入りしていた」と振り返る。

 しかし43年、戦時統制下の企業統合で「広島県合同缶詰」の傘下に。邸宅は軍に接収され、松浦氏は古里の秋越村(現安佐北区白木町)へ疎開した。原爆で工場と邸宅は焼け落ち、鉄砲町周辺に残っていた長男一家3人と次男、長女を失う。煙突と鉄筋3階建ての蔵だけが全壊を免れた。

 図面は7年前、功さんが妻の房枝さん(73)と白木町の実家で祖父の遺品を整理中、被爆前の工場の写真とともに見つかった。「個人で所有していては散逸の恐れがある。祖父たちの功績や、戦前ここに工場があったことを後世に伝えたい」と寄贈を決めた。

 松嶋博孝文化振興課長は「邸宅の部屋数の多さや、缶詰工場の充実ぶりが伝わってくる。広島の近代史の一面が分かる希少な資料」と評価している。

(2020年3月23日朝刊掲載)

関連写真

広島市鉄砲町(現中区)で戦前、松浦泰次郎氏(1872-1953)が経営していた缶詰工場と邸宅の写真や図面。

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