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連載・特集

『生きて』 元自民党政調会長 亀井静香さん(1936年~) <9> 国政に打って出る

2年弱で1万軒を訪問

 警察で仕事をする合間、地元の庄原市を含む衆院旧広島3区に関心を持って調べた。最初は軽い気持ちだった。3区は庄原出身で当選11回の永山忠則先生が引退し、後継候補も落選していた。俺は腹を決めた。

  ≪1977年、警察庁を退職≫

 辞表を出すと、上司は目を丸くした。当時俺も仕事ができる男と見られていたからね。退職金は350万円。選挙の元手にしようと思ったが、どれだけ必要か知らなかった。

 ≪退職後、東京・新橋の永山元自治相の個人事務所に向かう≫

 永山先生に会うと「元の仕事に戻れ。警察庁長官には俺が話をつけてやる」と言われた。俺も譲らず議論は堂々巡りさ。2、3度落選する覚悟はあるのかと聞かれたから、もちろんですと答えた。

 広島では西田修一県議会議長に会った。知事より力があった大ボスだ。まず県議を務め、国政に挑戦したらどうかと言われたが、俺の決意は固い。最後は「早く強くなれよ」と励ましてもらった。

 ≪旧広島3区の定数は5だった≫

 自民は宮沢喜一先生や佐藤守良先生がいて、社会、公明、民社党も実力者ぞろい。大変な選挙区だった。俺の支持者は幼なじみの熊本、八谷、横山、市川、原たち数人。一軒一軒あいさつ回りをしたが、戸をバンバン閉められ、大盛りの塩を頭にぶっかけられたこともあった。2年弱で約1万軒を回った。疲れて朝起きられないと、嫁さんに布団を剝ぎ取られた。「そんな覚悟なら、最初から選挙に出なさんな」ってね。

 忘れもしないのは庄原市議らとのドライブインでの昼食会。仕出し弁当に誰も箸を付けず立ち去った。でも徐々に成果を感じ始めた。宮沢先生や佐藤先生が強かった県南部に入ると、次第に中小零細企業の方々が俺の話を聞いてくれるようになった。初の後援会設立は因島。だから俺の選挙はずっと、あの島で第一声と出陣式をすることにしたんだ。

 ≪時の大平正芳首相が打った79年10月の解散総選挙。自民党が過半数割れする中、5位で当選する≫

 大穴の俺に当確が出るとヘリコプターを飛ばしてきたマスコミもあった。「百姓一揆」「ゲリラ戦の勝利」とか新聞に書かれたもんだよ。

(2020年2月14日朝刊掲載)

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