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戦没五輪選手 伝える非戦 32年大会出場 広島出身の土井修爾さん 母校同窓会に遺品寄贈へ

妻・両親は原爆死

 「戦没オリンピアン」で広島市出身の土井修爾さん(1909~38年)が32年ロサンゼルス五輪に出場した記念のメダルや写真類を、長女で神戸市垂水区に住む佐々木叔子さん(86)が保存する。母と祖父母は原爆死した。「戦争は嫌、駄目です」。父が1期生だった広島二中に始まる観音高の芸陽観音同窓会に遺品を寄贈し、母らの遺影は国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録する。(西本雅実)

 土井さんは、早稲田大法学部に進み五輪初の水球に出場。同大が92年まとめた校友・在学生の戦没者名簿には、日中戦争が起きた翌「38年7月7日 戦病死」との記載がある。戦没地などの詳細は不明だった。

 戦没オリンピアンは、自身も元五輪選手の曽根幹子広島市立大名誉教授(67)の調べで現在38人を数える。土井さんは広島陸軍病院で死去していた。日中戦争に続く太平洋戦争・原爆、抑留から逝ったオリンピアンのうち、最も早い死没者でもあった。その中国新聞記事を見た親族を通じて叔子さんの消息が分かった。

 「第10回国際オリンピック競技大会出場記念 於米国羅府」。ロサンゼルス大会のスタジアムも刻印した東京市(現東京都)作製のメダルや、軍服姿の写真など父の遺品を取り出し、今も覚えている記憶を語った。

 「葬儀では兵隊さんがラッパを吹いて小町(現中区)の家の前も行進しました」。弁護士になるはずが37年4月15日少尉で応召し、広島を拠点とする陸軍第五師団に所属。訓練中に皮膚の細菌感染症にかかり、戦病死に至った。

 二中在学時の成績表や広島県内初の公認50メートルプールが学校に33年できた写真も残る。弁護士だった祖父が大戦中に孫の叔子さんと共に疎開させていた。

 45年8月6日、原爆ドーム対岸に見る現在の本川小南側にあった転居先で、母知恵さん=当時(32)=と祖母シズエさん=同(58)=は爆死。祖父與一さん=同(59)=は小町の広島控訴院(現高裁)に向かったとみられ遺骨も不明となった。

 叔子さんは、疎開先から登校した、現安佐南区の祇園小運動場で被爆し、妹との2人だけに。亡き祖父の親族に身を寄せ洋裁学校に通う。結婚を機に20歳で神戸へ移り住み、編み物教室を営みながら娘3人を育て上げた。

 「父のことは、私が広島にいた頃には皆さんが話してくれました。原爆の前の晩、疎開先に戻るのを見送ってくれたのが母たちとの別れでした」。家族の在りし日の思いも込め、記録類の古里への寄贈を決めた。

五輪の意義を見つめ直そう

  曽根幹子広島市立大名誉教授の話
 戦没オリンピアンを巡ってはスポーツ界も長い間顧みてこなかった。しかし戦後75年となる中でも、ご遺族の証言や史料を得ることで実態が分かり、決して忘れてはならない戦争の悲劇が浮かび上がる。「東京2020」は延期されたが、五輪・パラリンピックは何のために行うのかを見つめ直したい。

(2020年4月5日朝刊掲載)

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