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ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <2> 技術の進歩

内部被曝 細胞貫く筋

「古い試料 解析可能」

 被爆後の混乱の中、研究者や医療関係者らは被害解明のため犠牲者の遺体を解剖し、病理標本を残した。一部は劣化が深刻だという。年月を経た学術資料は、どのように、どれだけ生かし得るのだろうか。

 もうひとつの被爆地、長崎市。爆心地公園から東へ約400メートルの長崎大キャンパスに、原爆後障害医療研究所を訪ねた。占領期に米軍が接収したスライド標本など2万3千点の「米軍返還資料」のうち、ここに長崎分が所蔵されている。

 七條和子助教(62)が、顕微鏡で拡大した肺の組織のスライドを画面に映し出した。数個分の細胞を貫き、最大で長さ25ミクロンの黒く細い筋が走る。「アルファ線が飛んだ跡です」。その特徴から、原爆のプルトニウムに由来すると推定した。

 米軍は75年前の8月6日にウラン型原爆を広島に、3日後にプルトニウム型原爆を長崎に投下した。外部から放射線を浴びる直接被爆と比べると、放射能を帯びた微粒子を吸い込むなどした「内部被曝(ひばく)」の人体影響については、分かっていないことが多い。体内にとどまった後に尿などで出されるため、時間がたつほど被曝の有無を確認することは困難になるといわれている。

乳剤かけて保管

 七條さんは、米軍返還資料のうち、爆心地から0・5~1キロほどで被爆し4カ月後までに死亡した7人の肺や腎臓の断片をろうで固めた「パラフィンブロック標本」を使った。薄片をスライドに載せ、乳剤をかけて暗室に保管すると、6~10カ月後に軌跡が見えた。

 「現代の技術で、被爆直後にタイムスリップしたような調査が可能になった」。七條さんたちの研究グループは、被爆者の病理標本から残留放射能の飛跡を初めて検出した例として2009年に発表した。入市被爆や、「黒い雨」を浴びたことで健康不安を抱える人たちからも注目された。

 被爆地の研究機関には、米軍返還資料だけでなく、被爆者の血液などさまざまな生体試料がある。「長期の保存は大変」との声も聞かれる。ホルマリン漬けの臓器標本は、古くなれば化学変化で細胞のDNAが細かく切れ、研究に生かすことは難しいと言われる。

 希望もある。広島修道大の新田由美子教授(61)は広島大原爆放射線医科学研究所(原医研)にいた約20年前、ホルマリン漬け臓器標本を調査した。32年がたった臓器の細胞でも、DNAの断片から特定の遺伝子を取り出して増殖させれば、専門機器を使った解析が可能だと分かった。資料保存のあり方は、科学技術が進めば変わってきそうだ。

亡き家族の一部

 一方で生体試料や標本は、被爆者の体の「延長」であり、遺族にとって亡き家族の体のかけら。複雑な思いがくすぶる。被爆地に米軍返還資料が戻ってきた1973年、「臓器標本は遺族に返して」との声が被爆者から上がった。

 放射線影響研究所(広島市南区)は、被爆から2年後の占領期に米国が設置した原爆傷害調査委員会(ABCC)が前身だ。解剖して得た病理標本や、被爆者健診で集めた血清、尿などを大量に保管する。

 2015年、零下80度の大型保冷庫を米国から導入した。生体試料を長期保存し、がん発生のメカニズムなどを解明する最先端の共同研究に利用していくという。18年に外部諮問委員会を設置。被爆者や専門家に、研究計画をめぐって意見を聞いている。

 広島被爆者団体連絡会議の吉岡幸雄事務局長(90)は若い頃、ABCCの被爆者調査の対象にされた。「乱暴なやり方で検査された」。ABCCと軍事研究とのつながりが色濃かった時期だ。不信感は今も拭えない。活用を認める条件は―。「がん患者を含め、傷ついた人を助ける研究ならば」。目的を丁寧に説明し、結果を還元する誠実さが欠かせない。(山本祐司)

(2020年4月8日朝刊掲載)

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