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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <3> 被爆者カルテ

健康追跡 膨大な蓄積

20年かけ電子化

 原爆は熱線、爆風と大量の放射線を放出する。被爆者は健康不安を強いられ、がんや血液の病気を患う「後障害」のリスクを生涯抱え続ける。被爆者の治療を担う医療機関には、一人一人の健康状態の追跡記録となるカルテや健診データが膨大に蓄積されている。

 広島原爆障害対策協議会(原対協)=広島市中区=は、被爆者の健診を担う拠点。書架に延べ約18万8千人分のカルテがぎっしり並ぶ。総務課の面迫敏朗課長(59)によると「1953年のカルテ的なもの」も。被爆者の健診制度を定めた旧原爆医療法ができる4年前だ。占領統治下も、日本の独立回復後も救済されずにいた被爆者のため、地元の医師たちが奔走していたことを伝える「物証」といえる。

 同法を引き継ぐ被爆者援護法は、書類の保存期間を「5年」と定めるが、原対協はすべて保存している。面迫さんは「先達が保存してきた。今後も残すことが使命」と力を込める。

 とはいえ、増え続ける書類の保管は重荷になる。広島赤十字・原爆病院(中区)は、55年から2000年までの被爆者の外来患者約5万4千人分のカルテを20年がかりで電子データ化。2年前にデータベースとして完成した。

 大量の紙カルテを処分する方針が院内で決まった際、病理診断科部長の藤原恵医師(63)が提案した。カルテは100字程度で、被爆状況を簡潔に記す。下痢や脱毛、出血など9項目の「放射能症」の有無や程度も選択式で記録し、統計分析がしやすい様式だ。

体験継承へ開示

 藤原さん自身、被爆直後の急性症状の有無と、その後の寿命との関連を調べる研究にデータベースを活用している。だが意外にも、データベースは学術研究のためだけでないと強調する。「被爆体験の継承に活用してほしい」。本人や家族から申請があれば、閲覧に極力応じる考えだ。

 ならば、と記者は栗原明子さん(93)=安佐北区=に58年前の初診時のカルテの複写を取り寄せてもらった。「父を捜す為(ため)…10日間広大(広島大)のグランドに野宿しながら市内全部歩いた」。歯茎の出血と軽度の脱毛があったと記す。

 栗原さんは「私の体験を次世代へ受け継いでもらえる」と声を弾ませた。藤原さんは、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)を訪れる遺族にも活用してもらうことを願う。

 胎内被爆者の畑口実さん(74)は、原爆資料館長を経て原対協の事務局長を務めた。大量の資料を目の当たりにする立場にあった。大学や研究機関、医療機関の情報を横断的に共有できないか、との思いを強めていったという。「被爆時の年齢や被爆場所、病気…。膨大なデータを比較し、見えてくるものがあるはず」

行方不明の記録

 散逸を防ぎ、「個」として点在する資料をつなぐには、当事者の連携が肝心だろう。ただ、患者カルテなどの記録は民間にもある。容易ではない。

 米ペンシルベニア州立大の歴史学者ラン・ツヴァイゲンバーグ准教授(43)は、精神医療の歴史という側面から原爆被害の実態を探っている。広島大の故小沼十寸穂(ますほ)名誉教授に光を当てようと、昨年広島で直筆カルテやメモを探した。

 戦後間もなく被爆の精神的影響の調査を始め、53年に研究発表をした医学者。この分野の先駆けと言われ、世界的に著名な米国の精神医学者ロバート・リフトン氏でも、広島で聞き取り調査をしたのは62年だ。

 ところが、ツヴァイゲンバーグさんはカルテの保管先と思われる広島市内の医療機関でも、広島大でも、意中の「小沼資料」を見つけられずにいる。「被爆地の視点を踏まえた歴史の検証がしづらくなる」と悔しがる。そして、付け加えた。「日本側の資料が残っておらず、米国の公文書に頼るケースは原爆研究に限らない。残念だが、よくあることだ」(山本祐司)

(2020年4月9日朝刊掲載)

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