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連載・特集

[ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現] 本川地区 児童や職人で活気

 鍛冶屋町、左官町、油屋町―。戦前の町名が示すとおり、相生橋(広島市中区)西詰めの本川地区には、問屋や商店、銀行とともに町工場が並んでいた。1945年8月6日に米軍は、丁字形をしたこの橋を目標に原爆を投下。大半の住民が即死し、爆心地から最も近い学校だった本川国民学校(現本川小)は壊滅した。奇跡的に残され、元住民や遺族が大切に保管してきた写真が、かつての暮らしを今に伝える。(桑島美帆、新山京子)

しゃれた校舎に憧れの師 原爆で一変 火葬場

 本川尋常高等学校の校庭に立つ児童が、「祝」の人文字をつくり日の丸の旗を高く掲げている。1937年に地元出身者が大蔵大臣に就任したことから、お祝いしようと開かれた行事の一こまだ。学びやの活気とともに、市民が国策に動員された時代の雰囲気が伝わってくる。

 アーチ型の窓が特徴的な校舎も見える。28年に鍛冶屋町(現本川町)に建設され、市内の公立小では第1号の鉄筋建物。「窓がおしゃれだった。1年の担任だった遠藤キヨコ先生は、オルガンがとても上手で、憧れましたよ」

 西(旧姓徳田)敦子さん(83)=西区=は43年に入学した。自宅は学校正門の斜め前。父が運送店を営んでいた。「隣は酒店で、向かいが商人宿。よく子ども同士で行き来して、ご飯を一緒に食べよったよ。いい街でした」

 しかし、本土空襲が激しくなった45年4月、千人余りいた児童のうち約700人が集団疎開や縁故疎開で郊外へ移る。西さんも、父の古里の水内村(現佐伯区)に疎開した。6月ごろ、自宅は防火帯用の空き地を作る建物疎開のため、取り壊されることに。両親は相生橋西詰めの近くに引っ越した。

 あの日、爆心地から約350メートルの至近距離の校舎は外郭を残して全焼。遺体が次々に運びこまれて火葬場と化し、一帯は凄惨(せいさん)を極めた。広島原爆戦災誌によると、当時確認できただけでも、疎開せずにいた児童218人が死亡。「大好きな遠藤先生」も犠牲になった。

 西さん自身、母を失った。12月になって校舎に足を運ぶと「地下の階がむき出しになり、友達とかくれんぼをしたらしゃれこうべが見えた」。その校舎の一部は、今も本川小平和資料館として使われている。

 8割以上の地区住民が死亡した。原爆孤児になった人も多い。左官町(現本川町)で両親が「大下鉄工所」を経営していた大下徳務さん(86)=中区=は光道国民学校の6年生だった。現在の北広島町志路原へ学童疎開している間に、両親や親族を奪われた。

 「海軍の仕事を請け負い、毎日夜10時まで動いていた」鉄工所は、被爆から約1週間後に訪れると跡形もなく「焼けた機械の周りに遺骨が5体分くらいあっただけ」。49年に叔父たちが鉄工所を再建し、後に大下さんが継いだ。「原爆のことを思い出すと商売ができん。封印し、誰にも話さずにいた」と明かす。

 問屋街だった西九軒町(現十日市町)の茶問屋「綿岡大雅園」では、綿岡重美さん=当時(45)=と38歳だった妻光子さん、3歳と6歳の娘が被爆死した。建物疎開に出ていた12歳の次女も亡くなり、16歳だった長女の智津子さん(2011年に82歳で死去)だけが生き残った。智津子さんの長女岩田(旧姓綿岡)美穂さん(62)が、現在も被爆前と同じ場所で営業している。

 岩田さんは約15年前から本川小平和資料館のボランティアガイドを務め、修学旅行生たちに母の被爆体験を語っている。店には、生き生きと働く祖父母の写真や、被爆前日に撮られた家族写真を展示する。「ここにどんな店があり、原爆で何があったかを知ってほしい。ヒロシマは決して昔話ではなく、日常の中で起こったことなんです」

(2020年4月14日朝刊掲載)

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