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原爆資料館リニューアル1年 <上> 遠い「実態」

 原爆資料館(広島市中区)は25日、本館をリニューアル開館してから1年となる。遺品などの「実物資料」に重点を置いた展示は注目を集め、2019年度の入館者は過去最多となった。活況の一方、75年前の被爆の事実を伝える資料館の営みは、被爆者が「体験した者にしか分からない」などと表現する根本的な難しさを抱える。課題と向き合う資料館の今を追う。(明知隼二)

遺品に重点 心に響く 「惨状伝える限界 追求を」

 入館者が本館で最初に出合う「集合展示」。大型のガラスケースに、米国の原爆投下で命を奪われた学徒23人の遺品が並ぶ。

初めて常設に

 その中の一つの焼け焦げた白い布には、小さく「マルミ」の刺しゅうがある。広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高)2年だった丸見義子さん=当時(14)=が着ていたブラウスの切れ端だ。リニューアルで初めて常設展示された。

 「よっちゃんはいつもきれいな服を着ていたそう。かわいがられていたのだろう」。親族の海野由美子さん(61)=南区=は、いとこである母と伯母から聞いた義子さんに思いをはせた。

 義子さんの遺影は、リニューアルを機に資料館を訪れた海野さんが提供した。義子さんの父の故・重男さんの自宅に残されていた。戸籍などで誕生日も確認し、不明だった義子さんの死亡時の年齢も「14歳」と確定させた。

 皆実町(現南区)の酒屋の一人娘だった義子さん。1945年8月6日、現在の平和記念公園(中区)南側での建物疎開作業に動員され全滅した市女1、2年生541人の1人だ。捜し歩いた父重男さんが数日後、近くの橋のたもとで同級生数人と息絶えているのを見つけた。焼け残ったブラウスの刺しゅうから、やっとわが子と確認できた。

 その遺品について、重男さんは82年に77歳で亡くなるまで、多くを語らなかった。「よっちゃんについて私が語れることは余りない。でも、ほんの少し残ったブラウスが、何かを語り掛けてくる」と海野さん。遺品一つ一つが放つ最期のメッセージ―。実物展示の重みを感じ、多くの人に見てほしいと願う。

 義子さんの同級生の父親が、現在の平和大橋近くの様子を手記に残している。「河原一面砂州よりに無残にも、何十何百の少女等(ら)が。或(あるい)は傷つき、或は眠り、実は既に事切れしか、又(また)は斃(たお)れ、あち、こちに、僅(わず)かに蠢(しゅん)動し、かすかに。ウメキ声が聞える」(「流燈」57年刊)

 遺品の集合展示には、こうした惨状をイメージしてもらう狙いがある。後に続く展示も犠牲者の遺影と言葉を短く添え、来館者の想像力に働き掛ける。

 資料館には「自分のことのよう」「家族の思いに共感した」などの声が届く。落葉裕信主任学芸員(42)は「犠牲者を一人一人の人間として、心で感じてもらう意図が伝わっている」。

終わらぬ問い

 元館長で被爆者の原田浩さん(80)=安佐南区=は「洗練された展示だが現実からはほど遠い」と評する。熱線に焼かれた人たちの姿、辺りを満たした死臭…。「共感という言葉では収まらない。見ていない人に想像しろと求めても難しい」。記録写真や被爆者の「原爆の絵」も並ぶが、悲惨さをじかに突きつける展示がもっとあっていいと注文する。

 自らも証言者。伝える難しさを知るからこそ、厳しい注文は期待の裏返しだ。「資料館は核兵器を二度と使わせない歯止め。洗練されていなくても、ださい展示でもいい。あの惨状を伝える表現の限界を追求してほしい」。あの日をいかに伝えるのか。リニューアル後も終わらない問いである。

(2020年4月24日朝刊掲載)

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